鴻激^リア・ジャーナリズムの内から、待望されることが出来るだろう。
プロレタリア・イデオロギーはルーズな意味でも大衆のものである。そして一般的に云えば、ジャーナリズムも亦元来そうした意味での大衆のものだったのである。今日のアカデミズムは処が封建的貴族と資本主義的貴族とのものであった。だからイデオロギーに於けるかの矛盾を止揚するものは、まず第一に、プロレタリア・アカデミズムよりも先に、プロレタリア・ジャーナリズムでなければならないのは当然である。――だがプロレタリア・ジャーナリズムとは何か、それは大衆化[#「大衆化」に傍点]の外ではない。
ジャーナリズムは普通、通俗化・啓蒙・又は俗流化とさえ考えられている。ブルジョア・ジャーナリズムならば、確かにそういう規定でも一応は捉えることが出来るだろう。だがプロレタリアのジャーナリズムはもはやそのようなものではないし、又あってはならない。一体人々は大衆という概念を勝手にルーズに用いるのではなく充分に科学的に用いなければならぬ*。それはプロレタリア階級に組織された又はされるべき民衆を意味すべきものである。大衆化とはだから外でもない、プロレタリアの
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