驕Bフロイト主義は、一つの意味での意識を、之とは異った意味での意識で以て、直接に無媒介に説明しようとする。その説明が見当違いで皮相なものとならなければ却って不思議と云わねばなるまい。かくてこそ文化形態も、かのオイディプス錯綜の一事例に過ぎないものとして片づけられて了うのである。――フロイト主義は、云わば社会主義的理論[#「社会主義的理論」に傍点]ではなくて個人主義的[#「個人主義的」に傍点]理論に他ならない。
理論を個人的意識から出発させるということは併し、一般に意識[#「意識」に傍点](精神)を存在の説明原理[#「存在の説明原理」に傍点]とすることを意味する。何故なら個人的意識は、或る方向に於てもはやそれ以上還元出来ない最後の基体として、登用されるのが常であるから(例えばフッセルルの現象学的還元)。だから個人的意識の概念を採用すれば、必然的に所謂観念論を採用する結果を招かざるを得ない。そのことはすでに述べた(第一章)。この時一般に意識は説明される処のものではなくて却って説明する処のものとなる。社会的歴史的現象は意識によって――即ち個人的意識によって――説明されねばならなくなる。それ
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