迥マ念論的に理解されるべき大勢の下に立たざるを得ない。それは併し取りも直さず、個人的意識の範疇によって歴史的意識が理解されねばならぬのが大勢だ、ということに外ならぬ。――だから、歴史的意識は元々個人的意識から超個人的意識への超越のために持出されたものであるにも拘らず、元の個人的意識を本当に超越して了っては結局行き処を持たなくなり、戸まどいせざるを得なくなる。そういう破目に立たされる。
個人的意識から超個人的意識へのこの歴史哲学的飛躍[#「歴史哲学的飛躍」に傍点]は、前の形而上学的飛躍[#「形而上学的飛躍」に傍点]と、結局の結果に於ては、大差がない。「歴史哲学」は実際、つまる処歴史の形而上学[#「歴史の形而上学」に傍点](或いは又社会の形而上学)にまで行きつくべきものなのであった。
本当の歴史的意識――超個人的意識のそういう一種の規定――の概論は無論、そのような形而上学的[#「形而上学的」に傍点]な意識の概念であってはならぬ、それは取りも直さず歴史的な[#「歴史的な」に傍点]意識の概念でなければなるまい。だが、歴史的ということは同時に又社会的[#「社会的」に傍点]ということでもあるの
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