Dいだろう。実際、弁証法とは形式的に云えばエレア主義とヘラクレイトス主義との弁証法的な統一なのである。
(形式論理に対する懐疑を有つ点では直観主義は一応形式主義に優っている。だが、数学的存在を主観的な[#「主観的な」に傍点]「直観」によって規定しようとした点では、直観主義は、云わば客観的[#「客観的」に傍点]な存在のモデルにも相当するだろう符号――シンボル――を数学的存在だと考える形式主義に、遠く及ばないもののようである。)
 さてここまで突きつめて来ると、数学的範疇――数学的世界観・存在論・論理――のイデオロギー性は明らかだろう。弁証法的論理学を(そして夫は唯物弁証法のことでなければならない筈であった――前を見よ)、採用するかしないかは、数学の歴史的前進にとって致命的な問題なのである。処が弁証法(唯物弁証法)的論理は、正にマルクス主義的論理学であった。之を採用するかしないかは、だから単に数学の歴史的前進だけの、又数学だけの、問題なのではない、夫は一切の範疇と連帯関係を持ち、従って又一定の社会的定位を持つ処の、問題なのである。それが数学のイデオロギー性に外ならない。
(数学に於ては、物
前へ 次へ
全378ページ中129ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング