フ心理から絶縁されて了う。処が事実は、社会に於ける個人が、社会に住むことによって持つ処の意識が、「社会人の心理」ではないのか。――吾々は個人的意識[#「個人的意識」に傍点]の概念に立て籠もることは之を却ける、それは個人意識[#「個人意識」に傍点]をそのまま無条件に、機械的に、同一哲学式に、社会人の心理[#「社会人の心理」に傍点]にまで移行させるからである。だが個人的意識の概念を禁止することと、個人の意識から絶縁せよということとは、全く別である。社会人の心理・意識形態としてのイデオロギー、プロレタリアが事実上持つ階級意識、之は社会に於ける個人の持つ個人意識(個人心理)が質的転換によって転化した処の、意識である。そして意識のこの質的転換を規定するものが社会の分析でなければならなかった。吾々は意識をこのような弁証法的概念[#「弁証法的概念」に傍点]として、――個人的意識[#「個人的意識」に傍点]の概念としてではなく――把握せねばならぬと云うのである。こう考えてこそ、階級意識も――その質的転化の歴史を溯源して――個人意識にまで主体化[#「主体化」に傍点]されることが出来るわけである。
 このようなものが吾々の社会心理学に於ける社会心[#「社会心」に傍点]――これはこれまでどの概念の下にも困難を伴った――である。このようなものが又、吾々に取って一般に、意識[#「意識」に傍点]の概念なのである。こうした意識乃至社会心を代表[#「代表」に傍点]すると考えられるものが、そして階級意識であった。夫は無論単に個人意識でもなく、そうかと云って社会理論のための作業仮説でもない。それはプロレタリアの代表的大衆[#「代表的大衆」に傍点]――無論数学的な全部や多数ではない――の個々の心理の内に、様々の水準に於て又様々の側面を示しつつ、事実上生きている*。だがそれが階級という社会的性格によって集約されるから、それは一定形態[#「形態」に傍点]――一定性格――の下に統一される。こうして集約され統一された限りの大衆の意識形態が、階級意識というイデオロギー――意識形態――なのである。
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
* L. Rudas のルカーチに対する批判はこの点で正しかった。
[#ここで字下げ終わり]
 吾々は今や、階級意識を代表的性格とすることによって、一般に意識形態乃至社会心の諸理
前へ 次へ
全189ページ中182ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング