名だが、それは恐らくこの意味に於てであったろう。こうなればイデオロジー(イデオロギー)という言葉はすでに嘲笑と非難とをしか意味しない。――そこでマルクスは、恐らくこの「フランス・イデオロギー」に対比して、ドイツの唯物論者達の観念性を指摘するために、その『ドイツ・イデオロギー』(Die Deutsche Ideologie)を書いた。十八世紀のフランス唯物論の副作用がフランスのイデオロジーであったと同じく、十九世紀のドイツ唯物論がドイツ・イデオロギーという副作用を持ったというわけである。
無論こういう云わば綽名としての言辞は、それだけでは科学的な概念にはなれない。だがイデオロギーという言葉が、その本来の真面目な意味内容が何かあった又あるにも拘らず、同時にかかるアイロニーでもあるが、実はこの概念の根本的な実質内容を暗示している。イデオロギーは唯物史観によれば、社会の上部構造――意識[#「意識」に傍点]――であると共に又虚偽意識[#「虚偽意識」に傍点]なのである。この場合それは利害[#「利害」に傍点]や好悪[#「好悪」に傍点]によって歪曲された意識を云い表わす。
で上部構造――広義の意識――としてのイデオロギーをもう少し分析しよう。この意識――超個人的・歴史的・社会的・意識――は併し、歴史的社会によって規定された限りの意識であった。と云うのは、仮に意識というものがあってそれが歴史的社会という存在によって限定されたとして、イデオロギーとしての意識はこうした限定を受けない前の意識[#「受けない前の意識」に傍点]を意味するのではない、そうではなくてこうした限定を受けた後の[#「受けた後の」に傍点]意識を意味するのである。処が意識という存在は歴史的社会とは一応別な存在であるから、その限り一応の[#「一応の」に傍点]自主性を有つので、一応は逆に自分が歴史的社会を限定すると考えられ得ねばならぬ。実際、吾々が歴史を造り社会を変革し得るのである。それにも拘らず、終局に於ては[#「終局に於ては」に傍点]意識が歴史的社会によって限定される、そのことはすでに述べた。では一応[#「一応」に傍点]は意識も亦歴史的社会を規定することと終局に於ては[#「終局に於ては」に傍点]歴史的社会だけが意識を規定することと、どこで異るのか、一応[#「一応」に傍点]と終局に於て[#「終局に於て」に傍点]との区別
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