念は性格的でない。ただ哲学の対象となる時それは例えば唯物論――一つのイズム[#「イズム」に傍点]――の根拠として理解されることも出来るであろう。イズムは常に性格的である――後を見よ。之に反して茶碗の概念は多くの場合性格的でなければならない。人々は茶碗と丼とを如何にして限界[#「限界」に傍点]するか、誰が茶碗の本質[#「本質」に傍点]を決定し得たであろうか、併しそれにも拘らず人々は日常、茶碗を茶碗として、丼を丼として性格づけて混同しないであろう。国家が殆んど常に性格的概念であることは、現代に於て最も著しく顕われている。或る人々は之を社会の絶対的な形態として、又は全く社会それ自身として性格づける。他の人々は之に反して、やがて階級の概念によって支配されるべき相対的な社会概念として性格づける。或いは理念の実現として性格づけられ、或いはそうでなくして生産関係の政治的一形態として性格づけられるであろう。
 性格的概念は又常識的概念[#「常識的概念」に傍点]と呼ばれることが出来る。常識的概念はどれ程それを学問的に専門的に研究するにしても、その常識性――日常性[#「日常性」に傍点]――を失わない。例え
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