題である。というのは、恰も知ることが欠くべからざる出発であり(何となれば知ることを予想せずしては知らないと云うことすら出来ないから)、又自我の存在が欠くべからざる出発である(何となれば自我が存在しなければそれが存在しないと云う主体が第一失われるから)、と考えられると同様に、問いは人間的存在の意識に於ける恰もそのような出発[#「出発」に傍点]であり、そして又そのような絶対的出発[#「絶対的出発」に傍点]である、というのである。或いはデカルト的・或いはフィヒテ的・体系[#「体系」に傍点]がかかる絶対的出発から出発したように、問いは或る一つの体系の出発をなすのであり、それが体系[#「体系」に傍点]の出発である点から必然に或る意味に於ける絶対的出発である、というのである(体系と絶対性との関係は後を見よ)。一種の存在論としての体系がそれから出発しなければならないと考えられるこの問い[#「問い」に傍点]なるものは(又より以上形式的な場合、論理学に於て、判断を呼び起こすもの又は肯定と否定との中間領域をなすものと考えられるかの問いも亦)、併しながら、充分な意味に於て吾々の今謂う所の問題[#「問題」に傍点]であるのではない。
 問いという言葉によって理解されるものは、云うまでもなく、それが何かの理論[#「理論」に傍点]のテーマとか出発とかを意味しなければならない必要はない。ましてそれが何かの科学[#「科学」に傍点](学問[#「学問」に傍点])に於ける問いを意味せねばならぬ理由はない(蓋し理論とは、比較的固定した社会的存在を概して意味する処の科学乃至学問の概念をば、より流動的・実践的に云い表わす概念である)。問いは人間の生活に於て比較的に断片的な即興的な態度の、又その態度の所産の、名である。単なる問いは従ってこの意味に於て、たとい形式社会学風に云って社会的であろうとも、矢張り個人的[#「個人的」に傍点]であると云う外はない。処が吾々の謂う所の問題[#「問題」に傍点]は常に社会的存在としての理論乃至科学(学問)に関するものとしてのみ理解されなければならないのである。問い[#「問い」に傍点]は個人的であって一向差閊えがない、之に反して問題は常に社会的であることを必要とする。社会人である個人が同じく社会人としての他人に又は自分に問うことは、彼個人の自由である、如何なることを問う[#「問う」に
前へ 次へ
全134ページ中30ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング