念は性格的でない。ただ哲学の対象となる時それは例えば唯物論――一つのイズム[#「イズム」に傍点]――の根拠として理解されることも出来るであろう。イズムは常に性格的である――後を見よ。之に反して茶碗の概念は多くの場合性格的でなければならない。人々は茶碗と丼とを如何にして限界[#「限界」に傍点]するか、誰が茶碗の本質[#「本質」に傍点]を決定し得たであろうか、併しそれにも拘らず人々は日常、茶碗を茶碗として、丼を丼として性格づけて混同しないであろう。国家が殆んど常に性格的概念であることは、現代に於て最も著しく顕われている。或る人々は之を社会の絶対的な形態として、又は全く社会それ自身として性格づける。他の人々は之に反して、やがて階級の概念によって支配されるべき相対的な社会概念として性格づける。或いは理念の実現として性格づけられ、或いはそうでなくして生産関係の政治的一形態として性格づけられるであろう。
性格的概念は又常識的概念[#「常識的概念」に傍点]と呼ばれることが出来る。常識的概念はどれ程それを学問的に専門的に研究するにしても、その常識性――日常性[#「日常性」に傍点]――を失わない。例えば国家概念――性格的概念としての――は之を如何に学的に取り扱っても依然として日常的概念としての性格を失わない、国家に関する凡ゆる専門的研究の結果はただこの日常性に於て検証されてのみ学問的業績としての資格を得ることが出来るのだからである。之に反して常識的でない概念は、――それは専門的研究に於てしか[#「しか」に傍点]現われないという意味に於てそしてただこの意味に於てのみ専門的概念と呼ばれてよい――、それをどれ程通俗化[#「通俗化」に傍点]しようとも日常的となることは出来ない。例えば電子――之は恐らく常に常識的ではない非性格的な概念であるであろう――の知識が、どれ程一般的に普及しようとも、それであるからと云ってそれだけ電子の概念が日常的となったのではない、電子の存在は凡ての素人にとって実験的[#「実験的」に傍点]に証明され得るであろう、併しただ吾々は電子ではなくして物体を又特に例えば机をのみ日常的に検証[#「検証」に傍点]し得る。――区別は日常性と通俗性との間に横たわる。後者は専門家を除いた限りの素人を予想する、それは科学的研究の進歩と共に進歩する、通俗性の理想――規範――はそれ故結局通俗
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