fミー――高踏化――であるよりも、寧ろジャーナリズム――俗流化――であることは、実際問題として特に注目に値する。

 科学の高踏化[#「高踏化」に傍点]とその俗流化[#「俗流化」に傍点]とは、科学の大衆化[#「大衆化」に傍点]の名に於て批判さるべき、二つの虚偽である*。夫を吾々は今までで見た。科学の大衆化という、この階級的[#「階級的」に傍点]啓蒙は、この二つの虚偽を――インテリゲンチャと有産者とに対して――批判することを以て、始めねばならぬ。そうした後になって初めて、科学大衆化の積極的任務が具体的な形で課せられ得るであろう。――さて今までの吾々はこの前半を取り扱った、科学の大衆化が何で無いか[#「何で無いか」に傍点]、を。次に後半を、科学の大衆化が何であるかを[#「何であるかを」に傍点]、改めて見よう。
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* 科学の通俗化・報道化・実際化・は之に反して虚偽[#「虚偽」に傍点]ではなかった。之等のものはそして、没階級的啓蒙[#「没階級的啓蒙」に傍点]であったことを注意せよ。
[#ここで字下げ終わり]
 大衆性とは、大衆化とは、事物が単に普及されることではなくして、大衆がその事物の水準の高さにまで組織化されることであった。従って科学の大衆性とは、科学を大衆化すとは、大衆がその科学を把握し得るような水準にまで組織化されることである筈であった。科学[#「科学」に傍点]が大衆にまで降りて来ることではなくて、大衆[#「大衆」に傍点]が科学にまで昇って行くことが、科学の大衆化なのである。それ故科学の大衆性[#「科学の大衆性」に傍点]とは実は大衆の科学性[#「大衆の科学性」に傍点]でなければならない。この点は根本的に重大である。この意味を説明しよう。
 科学は云うまでもなく科学するものの存在[#「存在」に傍点]を離れては存在しない、であるから、科学は科学するものの存在を離れて考え[#「考え」に傍点]られてはならない。今科学の大衆性という問題に就いてはそれ故、単純に科学[#「科学」に傍点]をまず第一に語るべきではなくして、科学する大衆[#「大衆」に傍点]をまず初めに語る必要が生じて来る。科学があって科学の大衆性が問題になるのではなくして、大衆があって科学の大衆性が問題となるのである。科学せんとする大衆がまず存在して、その上で科学の大衆化が必
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