u大衆自身」に傍点]であって、非大衆であってはならなかったのだから。大衆化の概念に於ては、従来の教育や啓蒙の概念は方向を転倒されねばならぬ。
 かくの如きが大衆と大衆性との、又大衆化の、現実的な概念であるだろう。尤も、もし現実的ではなくして単に可能的な概念を求めるならば、恐らく夫は何とでも云えることである。併し何時も大事なことは、今茲で何が問題になっているか、である。この問題が、そこに問題になっている概念の形態――性格――を強制する。
 吾々は科学の[#「科学の」に傍点]大衆性の問題に這入ろう。併しそのためには予め科学に二つの種類を区別しておくことが必要である。吾々は科学を日常的[#「日常的」に傍点]と非日常的[#「非日常的」に傍点]とに区別しようと思う。蓋し前者に於ては日常的原理[#「日常的原理」に傍点]――日常性[#「日常性」に傍点]――が本来支配し、後者に於ては之が本来は支配しない、と考えられる理由があるから*。
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* 日常性(又は特定の意味に於ける常識性)に就いては、他の機会に述べようと思う。二つの科学の区別に就いては一応 K. Mannheim, Das Problem einer Soziologie des Wissens.(〔Archiv fu:r Sozialwissenschaft und Sozialpolitik, 1925, Bd. 53. S. 621―622〕)を見よ。なお拙著『科学方法論』〔前出〕参照。
[#ここで字下げ終わり]

[#3字下げ]二[#「二」は中見出し]

 科学の大衆性を口にする時、第一に思い起こされるのは恐らく、科学の通俗化[#「通俗化」に傍点]であるだろう。どのような科学も、日常的科学であろうと非日常的科学であろうと、それ自身では決して通俗的ではあり得ない。何となれば、どのような科学もそれを科学的に確実な・明晰判明なものとしようとすれば、勢いその操作又は分析が実際上は複雑となるのであり、従って却って外見上は、或る意味に於て難解となるのが普通だからである。科学的[#「科学的」に傍点]に好く判るようにするためには、却って通俗的[#「通俗的」に傍点]には把捉し難くなるような犠牲を払わねばならないのが、多くの場合であるだろう。併しそれにも拘らず、一切の科学は通俗化され得る。と云う
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