家は自己の失敗又は野心をば尤もらしい推理を考え出すことによって正当づけようと企てる。扇動家は民衆に向って一定の効果を収めるために、巧言令辞を並べて推理する。民衆がもし彼の言葉と共に推理することが出来たならば彼は所謂雄弁家――修辞家――となるのである。このようにして一般に、感情の論理は、予め与えられたる結論を正当づけるということをその特色とする。そこに支配するものはこの意味に於て先入見[#「先入見」に傍点]に外ならない、そうリボーは付け加える。
さて一定の先入見を意識していることと、その先入見を虚偽として意識していることとは無論全く別である。それ故所謂感情の論理に於ては、一方に於て、無意識的虚偽が這入る余地がないと云うことにはならぬし、そして又他方に於て、先入見を有つという理由によって感情の論理が直ちに無意識的虚偽の論理であるということにもならない。実際先入見それ自身が虚偽に基くか基かないかによって、感情の論理は或いは無意識的虚偽であり或いは夫ではないのである。もし先入見が凡て虚偽であるならば、吾々は何の主張をすることも出来ぬであろう。何となれば何かの先入見に基かない主張は絶対に一つもないであろうから。であるから吾々はリボーから次のことを学ぶことが出来た。第一に、虚偽はその発生の地盤を感情の論理の内に有っている、何となれば合理的論理は原則として虚偽を含まない筈の論理の理想であったのだから。第二に併し、感情の論理はどのような場合に夫から虚偽が組織的に発生し、又どのような場合に却って真理がそれから組織的に発生するかを、それ自身に依っては説明することが出来ない。何となれば先入見とは――之を正当づける推論の正不正とは無関係に――場合々々によって真理又は虚偽であるから、虚偽が感情に基くことは明らかとなった、併し感情[#「感情」に傍点]のどのような形態に基くものが虚偽であるかが未定なのである。そして大事なことは、組織的に虚偽を生むべき感情のこの形態が、感情そのものによって決定され得なかったという点である。かくて一定形態の組織的虚偽を明らかにすることの出来るものはもはや単なる感情ではなくして、もはや単に主観的な意識の機能ではなくして、之の外にあって之の形態を決定する処の何物かでなければならない。
近代に於ける最も意味ある、そして最も独創的な社会学者 G. Tarde はこの点に
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