I・無産者的・民衆論理学」と呼ばれる「階級論理学」の一つの場合である(〔J. Dietzgen, Briefe u:ber Logik, speziell demokratisch−proletarische Logik.〕 を見よ)。
 タルドの「社会的論理」の如きはそれ故、単に偶然な類推と解釈されるべきではない。もし論理が社会的性格を有つならば逆に社会が論理的であると考えられるのは自然である。社会が推論式を有っており、この推論式を介して歴史的推移が行われる、と考えることには理由がなくはないであろう(G. Tarde, La logique sociale, p. 63 其の他を参照)。
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 社会を吾々は社会形態[#「社会形態」に傍点]として理解する。之を形式主義的[#「形式主義的」に傍点]に理解することを、吾々の理論に於ては絶対に許さない。もし社会を一旦形式性に於て規定しておいて、後からそれの内容――それは歴史[#「歴史」に傍点]である――を付加・※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]入しようとするならば、この内容は現実内容としての規定を抽象されたものであり、内容一般としての形式的[#「形式的」に傍点]なるものを出ることが出来ない。この種の警戒を吾々は繰り返した。社会のこのような――云わば社会学的[#「社会学的」に傍点]――分析に於ては、歴史は現実内容として内容的・質料的原理を有つものとしてではなくして、原理を形式に仰がねばならぬ処の任意の可能的素材として、片づけられて了うのが常である。社会のそのような概念は、自らを一応歴史的であるかのように見せかけるにも拘らず、その歴史性が可能的素材の資格しかないのであるから、現実的ではあり得ない。それが歴史的でない証拠なのである。たとい社会の諸規定が無論天降りにではなく、現実の歴史の内から引き出されたものであると云って見ても、問題はそもそも、その引き出し方――抽象法――の如何にあるのだから、一向変りがない。吾々は之に反して社会を社会形態として理解する。この形態を決定するものは、現実としての歴史[#「現実としての歴史」に傍点]の外にはない*。
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* 社会形態という言葉は、デュルケムの morphologie sociale を
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