煤u個人」に傍点]の意識でしかないことを注意する必要がある。もし超個人的意識というような概念が愛用されるとしても、之を個人的意識へどう関係づけるかを同時に説明しない限り、この概念は地盤がなく理論上の効果を有つことを許されない。個人的意識をただ超越したというだけの超個人的意識の概念は、ただ弁疏的な役割しか果さないであろう。又社会が意識を有つというような云い表わし方は比喩か類推に外ならない。意識概念は、自我概念がそうあるように、ただ個人概念からしか動機されない。人々はこの概念を行使する時、それであるから、常にこの個人概念からの動機に忠実であるべきことを忘れてはならない。この概念をどのように非個人的なるものとして行使しようともそれは人々の自由であるが、それが元来の動機から云って個人的であったことの意識が曖昧であるならば、そこではもはや人々は意識概念使用の権限を踏み超えにかかっているのである。この単純な事実は散漫にではなく正確にそして一般的に掴まれねばならぬ。さて意識概念は情意形態・信念形態を決定することは出来なかった。そして意識概念は今、常に個人的意識の概念でなければならなかった。それ故、吾々の求めている形態を決定するものは、個人[#「個人」に傍点]に関わる概念ではあり得ない。それは社会的存在[#「社会的存在」に傍点]である外ない。一般に、意識形態を決定するものは社会であるであろう。今はその特殊の場合として、情意形態・信念形態に就いて、之を決定するものが社会である、ということとなる。
 社会が情意乃至信念の――一般に意識の――形態を決定する。前に、情意乃至信念が論理形態を決定した。故に社会は論理形態を決定し得る筈である。併し単に、社会が意識形態を決定しそして意識が論理形態を決定するから、従ってただ間接に[#「間接に」に傍点]社会が論理形態を決定することになる、と云うのではない。もしそうならばこの二重の形態決定関係によって最初の形態は多少ともその形を崩し変装するであろうから、もはや充分な意味に於て社会が論理形態[#「形態」に傍点]を決定するとは云われないかも知れない。今はそれだけではなくして、この二重の形態決定関係を条件として、それの上で、社会が直接に[#「直接に」に傍点]、論理形態を決定し得るというのである。社会は意識形態を決定するばかりではなく、みずから論理形態をも決定
前へ 次へ
全134ページ中68ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング