とは、この事物が有つ[#「有つ」に傍点]、即ちそれに与え[#「与え」に傍点]られた、刻印を指す。事物は例えばAなるものとして[#「として」に傍点]、刻印されて[#「されて」に傍点]、あるのである。同一の事物も様々の刻印を捺されることによって、夫々の異った性格者として[#「として」に傍点]現われることが出来る。同一の行動が或いは賞嘆すべきものとして、或いは唾棄すべきものとして、刻印を捺されることの出来るのが事実であるであろう。性格は今事物の性格であったから云うまでもなく事物それ自身にぞくするのでなければならない、事物が有っている関係を離れて任意な性格を刻印することは許されない。仮にそれを許すとしたならばそのような性格は結局性格としては受け取られないであろう。それは性格概念自身に矛盾するからである。処がその事物それ自身に固有でありながらそれにも拘らず性格は、その事物それ自身から一応離れ得る性格を有っていなくてはならない、同一の事物が様々の性格を有つものとして現われ[#「現われ」に傍点]得たからである。今仮りに事物の性格という概念の代りに事物の本質[#「本質」に傍点]という概念を引き合わせて見ることが有効であると思われる。事物の本質はこの概念それ自身から必然に、事物への固有を意味する。事物Aの本質はαでありBの本質はβであるとして、人々はAとBの関係をαとβとの関係によって考察する事が出来るのである。この場合Aの本質がαとして或いは又[#「或いは又」に傍点]βとして、現われ得るのであってはならない。何となれば本質はなる程事物に就いて人々が[#「人々が」に傍点]発見したものである外はないが、併し又人々によって与えられたという規定をもつのであっては事物の本質の概念ではない。本質は常に、人々によってどう見出されようとも結局に於てはそれとは独立に、事物それ自身に具わっている処の、根本的な性質を意味する。そこで同一の事物Aの本質がαとなって現われたりβとなって現われたり出来るということは――たとい事実上の誤謬として起こるにしても――本質概念自身から云って許されない。本質概念は本質を見出した人々への関係とは独立に、一旦事実上この関係を通過しなければならないが併し結局のテロスに於てこの関係を脱却して、みずからを成立せしめている。それは人々にとって彼方にある。これを押しつめるならば本質は
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