の要求に応じる処の、最も文化的な相貌を具えた一翼であることが、以上のことから推定される。公式を恐れることは決して酔狂からではない。それには組織がある。そしてその組織の文化的な体系として、例の文学主義が存在しているわけだ。公式主義呼ばわり主義者には、組織があり体系があるだけではない。実は彼等自身一種の公式[#「公式」に傍点]さえがあるのだ。民族とか国家とか日本とかそういう公式がいくつかあるのであるが、ただ幸か不幸かこの公式は科学的[#「科学的」に傍点]公式でないために(では何の公式なのかというと要するにそれこそただ[#「ただ」に傍点]の公式なのだが)、自分は公式的でなくて相手だけが公式的だ、と云っていられるわけだ。だがそれだけではない、科学的な公式から逸脱し、之を独善的に否定し、そしてこの何だか性の知れない「公式」に移るという、そういうメタモルフォーゼ(変態)か何かが、実は或る一つの公式として科学的に予見され論証されているものなのである。文学主義の批判はそういう科学的公式を与えているのだ。――でこういうわけで、どうしても公式という言葉は自分自身に都合のよくないもので、困った厄介なものなの
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