なく、なまじ歴史的に歴然たる存在を有った言葉だけに、カリケチュアの指摘に役立てるためには、利き目が薄いのが遺憾だ。元来、既成の言葉を使って諷刺することは、事態の新しさに適応する力を失った時に多いことで、憂鬱な人間は誰でもハムレット、誇大妄想の人間は誰でもドン・キホーテと云った類で、大抵は隙だらけの特徴づけに終らざるを得ない。既成の言葉がアダ名となるのはやや微温的に過ぎるのであって、寧ろアダ名が自称となる位いでなくてはならぬ。「印象主義」の場合のようにだ。処で吾々は科学主義のレッテルを貼られても、之を自ら称すべく居直る必要などは認めない。吾々は自分を特徴づけるもっと由緒のある言葉に富んでいるからだ。文学主義で何が悪いか、俺は立派な文学主義者だ、などと居直らざるを得ないのが、処で文学主義者の方なのである。
さて公式主義呼ばわり主義者にとって、なぜ公式というものがそんなに恐ろしいか。公式というのは勿論科学公式のことだ。社交の公式や服装の公式のことではない。だから公式を一旦容認すれば、その背後につめかけている膨大な科学(自然科学ばかりでなく社会科学もである)の大群を容として迎えねばならぬ。科
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