の、一般ジャーナリズムにはジャーナリズム特有の、低能現象があると思うが、文壇の低能現象はシステムの意識を自覚することの乏しい処にあるので世間では之を指して文壇に教養がないといっているのである。
 板垣鷹穂氏の言葉に、「味の素」評論家ということがある。ホーレン草にも沢庵にも同じ批評を振りかける評論家のことを指すらしいが、併し案外教養というのはこういう、人間の「味の素」ではないかとも考えられる。ホーレン草にも沢庵にも利くというものは、そんなにざらにあるものではない。尤もシステムは瓶に這入った味の素ではない、何にかけても美味くなるという事件そのものが、システムであろう。或いは一切の植物性食物に含まれている含有味の素が、システムかも知れない、して見るとフランスのアンシクロペディストなどは、こうした文化的味の素の発見者であったわけだ。之が教養という問題の本当の形だと思うが、するとさっきから云って来た処によって、最も教養ある人間は最も公式的でなくてはならぬということにさえなるようだ。
 公式は拒み得ても科学的公式は拒み得ない、科学的公式を拒み得てもシステムを拒み得ない。最後にシステムを拒むことは出
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