ステムとの意義は重い。独り科学だけに科学的な精神が必要なのではないのである。
 教養という問題が最近注目されている。文学者と教養とか学生と教養とかいう風に云われている。思想という言葉に魅力がなくなったので、今度は教養ということになったのかも知れない。思想的なアクセントを抜きにして、思想傾向とは独立と思われるらしい教養というものを持ち出して、もっとヒューマニズム的な気分を出す心算もあるかも知れない。だが教養とシステムとは切っても切れない関係に立っている。教養は勿論ただの教養効果や知識所有量や又お品の好さと一つではない。教養という観念を人格者論式に見ることも不充分であると共に、之をアカデミー主義から見ることも不充分だ。ただ修養したり又ただ勉強したりしたって教養にはならぬ。教養には見識のシステムがあって、それが事毎に発動して肥えて行くということがなくてはならぬ。そしてシステムの発動にはいつも公式というものが陰に陽に必要なのである。あれも之も知っているということは、花嫁の嫁入資格ではあっても、教養とは関係が無い。知識相互の間にカテゴリーの上での統一がなくてはならぬ。アカデミーにはアカデミー特有の、一般ジャーナリズムにはジャーナリズム特有の、低能現象があると思うが、文壇の低能現象はシステムの意識を自覚することの乏しい処にあるので世間では之を指して文壇に教養がないといっているのである。
 板垣鷹穂氏の言葉に、「味の素」評論家ということがある。ホーレン草にも沢庵にも同じ批評を振りかける評論家のことを指すらしいが、併し案外教養というのはこういう、人間の「味の素」ではないかとも考えられる。ホーレン草にも沢庵にも利くというものは、そんなにざらにあるものではない。尤もシステムは瓶に這入った味の素ではない、何にかけても美味くなるという事件そのものが、システムであろう。或いは一切の植物性食物に含まれている含有味の素が、システムかも知れない、して見るとフランスのアンシクロペディストなどは、こうした文化的味の素の発見者であったわけだ。之が教養という問題の本当の形だと思うが、するとさっきから云って来た処によって、最も教養ある人間は最も公式的でなくてはならぬということにさえなるようだ。
 公式は拒み得ても科学的公式は拒み得ない、科学的公式を拒み得てもシステムを拒み得ない。最後にシステムを拒むことは出来ても科学的システムを拒むことは出来ない。拒むということがすでにシステムに依らねばならぬことだからだ。尤もシステムに依らず無理論的に拒絶することが現在の日本では流行らぬでもない。そして知性とかいう言葉もこの肝心の処ではサッサと二つに分れる。どっちへ行こうと知性に変りはないらしい。だから私は知性というような二股かけた日本語は信用しないのである。
[#地付き](一九三七・七)



底本:「戸坂潤全集 第一巻」勁草書房
   1966(昭和41)年5月25日第1刷発行
   1967(昭和42)年5月15日第3刷発行
入力:矢野正人
校正:松永正敏
2003年9月11日作成
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