論家でもシステムを持たずには批評はなし得なかったが、併しではどんなシステムを持っているかということを、ただの外見からは見出すことの出来ない場合の方が多い。ばかりでなく批評家当人自身さえそう問われて困ることは珍しくなかっただろう。この場合には、システムが意識[#「意識」に傍点]されていないのである。意識化されたシステムを偶々その瞬間に持っていなかったのである。システムがなかったのではない。
思想のシステムが透けてみえないことは、何か文学的な美徳であるというような迷信が流布している。だが、思想のない場合にも、思想は透けて見えないものだ。そして本当に自覚していないような思想は、思想ではない。思想は一種の労作か労働なのだから、どんなに天来の思想でも必ずその思想的なポテンシャル・エナージーを自覚しているものだ。自覚しないように考えられるのは、作家なら作家みずからその思想を説明する別な言葉を持ち合わさぬというまでで、そのためには評論家というものが助けに出て来るのだ。だから本当を云うと、透けて見えない思想などというものは、無思想と同じことなので、システムが見えないものは実は思想でも何でもないのである。思想的言語的表現法を有つ文芸についてはそうなのだ。
思想のシステムが露骨に見えはせぬかという心配は、日本の文学の現状では少し先き走りすぎた越権でさえもあるように思われる。まず第一に心配すべきは無思想と無体系――世界を把握し実在を捕捉する――であり、第二に心配すべきはその思想と体系とが充分に独自な撚りをかけられているかどうか、つきつめて考え抜かれているかどうか、である。この点を単純に、思想の「具体化」とか「血肉化」とかいう常識で置きかえてはならぬ。思想の具体化とはまず第一に考え抜くことと撚りをかけることだ。システムを発動させることだ。この関門を通らずに、いきなり血肉化とか何とかいうのは、無思想と無体系との自己弁解と云われても仕方があるまい。思想の具体化ということは思想を徹底的にクロスさせて限定し切ることだ。そうしないと思想の血肉化などは不可能だ。――つまり公式の活用によるシステム・思想の発育ということが、文学の存在理由の第一をなすのである。こういう事情を科学的と呼ぶのである。
創作に於てもクリティシズムに於ても、独り文芸のクリティシズムに限らずクリティシズム一般に於ても、公式とシ
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