号することも出来るわけであるが、併しとに角、科学的であるということは本当の意味に於て体系的であることだという点には間違いはない。公式はこの科学的体系の要素なのである。
システムというと物ごとの不動な布置ででもあるように考えるのが、一部の常識である。そして公式や科学に恐怖を持つ者は、それをこの不動な布置としてのシステムに結びつけて、非難する。システムは死んだものだという。だからシステムのないものは活きたものだというのだ。安価の生命主義や何かはこの手を使うのであるが、相当の哲学者にもシステムをそういうものと考えている者は多い。W・ジェームズがヘーゲルをこき下す場合には専らこのやり方であり、H・リッケルトなどが「開放システム」というような変な言葉を使う際にもこういう想定に立っている。だがこんなものがシステムならば誰もシステムなどを手頼りにする筈はない。
システムは役に立つからシステムなのだ。公式も役に立つから公式なのである。単純に固定したものなら役に立つ筈はない。システムは体系化し組織化して行く処のものに他ならない。自分で肥って行くことがシステムでありオルガニズムである。体系や組織とは本来そういうもの以外にはないはずで、そうでなければ細胞のオルグなどということはナンセンスになる。そこで実際に思想内容を組織化し体系化して行くことだが、それはただやれない、実験とか経験とかいう感性的な媒介によって初めてシステムが育って行くのは知れた事だ。そうでないシステムは妄想にすぎないので、そういう非現実的なシステムは各種の精神病の典型によく現われる。だからシステムは単に、自分が肥って行くためのメカニズムを自分自身で用意する処のメカニズムであるばかりでなく、そのメカニズムが感性的な実際性(アクチュアリティー)を実地力(実践力)を、持っていることを必要とする。公式はそういう時に役に立つので、公式というのは過去の実際的経験が蓄積され精錬され省略化された活動用具だからである。
どんな固定観念にでもシステムはある。凡そ観念の存する処、必ず観念のシステムはある。ただそのシステムが発達するシステムであるかないか、つまり同じことだが、その観念が発達する思想[#「思想」に傍点]であるかないかが、問題なのだが、併し生きて動いている思想でも、システムが透けて見えない場合は非常に多い。例えば古来どんな文芸評
前へ
次へ
全10ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング