良夜
徳冨蘆花

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)良夜《れうや》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)十五六|歩《ぽ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「虫+慈」、62−6]々《じゞ》

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)溶々《やう/\》として
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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良夜《れうや》とは今宵《こよひ》ならむ。今宵は陰暦《いんれき》七月十五夜なり。月清《つきゝよ》く、風《かぜ》涼《すゞ》し。
夜業《やげう》の筆を擱《さしお》き、枝折戸《しをりど》開《あ》けて、十五六|歩《ぽ》邸内《ていない》を行けば、栗の大木《たいぼく》真黒《まつくろ》に茂る辺《ほとり》に出《い》でぬ。其《その》蔭《かげ》に潜《ひそ》める井戸あり。涼気《れうき》水《みづ》の如く闇中《あんちう》に浮動《ふどう》す。虫声《ちうせい》※[#「虫+慈」、62−6]々《じゞ》。時々《とき/″\》白銀《しろがね》の雫《しづく》のポタリと墜《お》つるは、誰《た》が水を汲みて去りしにや。
更に行《ゆ》きて畑《はたけ》の中に佇《たゝず》む。月は今《いま》彼方《かなた》の大竹薮《おほだけやぶ》を離れて、清光《せいくわう》溶々《やう/\》として上天《じやうてん》下地《かち》を浸し、身は水中に立つの思《おもひ》あり。星の光何ぞ薄《うす》き。氷川《ひかわ》の森も淡くして煙《けぶり》と見《み》ふめり。静かに立ちてあれば、吾《わが》側《そば》なる桑の葉、玉蜀黍《たうもろこし》の葉は、月光《げつくわう》を浴びて青光《あおびか》りに光り、棕櫚《しゆろ》はさや/\と月に囁《さゝ》やく。虫の音《ね》滋《しげ》き草を踏めば、月影《つきかげ》爪先《つまさき》に散り行く。露のこぼるゝなり。籔の辺《あた》りには頻《しき》りに鳥の声す。月の明《あか》きに彼等の得眠《えねぶ》らぬなるべし。
開《ひら》けたる所は月光《げつくわう》水《みづ》の如く流れ、樹下《じゆか》は月光《げつくわう》青《あを》き雨の如くに漏りぬ。歩《ほ》を返《か》へして、木蔭を過《す》ぐるに、灯火《ともしび》のかげ木《こ》の間《ま》を漏《も》れて、人の夜涼《やれう》に語《かた》るあり。
枝折戸《しをりど》閉《と》ぢて、椽《えん》に踞《きよ》す程《ほど》に、十時も過ぎて、往来《わうらい》全《まつた》く絶へ、月は頭上に来《きた》りぬ。一|庭《てい》の月影《つきかげ》夢《ゆめ》よりも美《び》なり。
月は一庭の樹《じゆ》を照《て》らし、樹は一庭の影を落し、影と光と黒白《こくびやく》斑々《はん/\》として庭《には》に満《み》つ。椽《えん》に大《おほい》なる楓《かへで》の如き影あり、金剛纂《やつで》の落せるなり。月光《げつくわう》其《その》滑《なめ》らかなる葉の面《おも》に落ちて、葉は宛《さ》ながら碧玉《へきぎよく》の扇《あふぎ》と照《て》れるが、其上《そのうへ》にまた黒き斑点《はんてん》ありてちら/\躍《おど》れり。李樹《すもゝ》の影の映《うつ》れるなり。
月より流るゝ風《かぜ》梢《こずえ》をわたる毎《ごと》に、一庭の月光《げつくわう》と樹影《じゆえい》と相抱《あひいだ》いて跳《おど》り、白《はく》揺《ゆ》らぎ黒《こく》さゞめきて、其中《そのなか》を歩《ほ》するの身《み》は、是《こ》れ無熱池《むねつち》の藻《も》の間《ま》に遊《あそ》ぶの魚《うを》にあらざるかを疑《うたが》ふ。



底本:「日本の名随筆58 月」作品社
   1987(昭和62)年8月25日第1刷発行
底本の親本:「自然と人生」岩波文庫、岩波書店
   1933(昭和8)年5月
入力:土屋隆
校正:門田裕志
2006年9月21日作成
青空文庫作成ファイル:
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終わり
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