れ家郷思遠征《かきょうえんせいをおもう》と吟じて平気に澄ましておれど、(笑いたもうな)浪さんの写真は始終ある人の内ポケットに潜みおり候。今この手紙を書く時も、宅《うち》のあの六畳の部屋《へや》の芭蕉《ばしょう》の陰の机に頬杖《ほおづえ》つきてこの手紙を読む人の面影がすぐそこに見え候(中略)
 シドニー港内には夫婦、家族、他人交えずヨットに乗りて遊ぶ者多し。他日功成り名遂げて小生も浪さんも白髪《しらが》の爺姥《じじばば》になる時は、あにただヨットのみならんや、五千トンぐらいの汽船を一艘《いっそう》こしらえ、小生が船長となって、子供や孫を乗組員として世界週航を企て申すべく候。その節はこのシドニーにも来て、何十年|前《ぜん》血気盛りの海軍少尉の夢を白髪の浪さんに話し申すべく候(下略)
[#1字下げここまで]
シドニーにて[#この行、下揃え、下から7字上げ、相対的に字が小さい]
    八月 日[#この行ここまで相対的に字が小さい、ここからは下揃え、下から3字上げ]武 男 生
   浪子さま

     七の二

[#これより手紙文、1字下げ]
 去る七月十五日香港よりお仕出しのおなつかしき玉章《たまずさ》とる手おそしとくりかえしくりかえしくりかえし拝し上げ参らせ候 さ候えばはげしき暑さの御《おん》さわりもあらせられず何より何より御嬉《おんうれ》しゅう存じ上げ参らせ候 この許《もと》御母上様御病気もこの節は大きにお快く何とぞ何とぞ御安心遊ばし候よう願い上げ参らせ候 わたくし事も毎日とやかくとさびしき日を送りおり参らせ候 お留守の事にも候えば何とぞ母上様の御機嫌《ごきげん》に入り候ようにと心がけおり参らせ候えども不束《ふつつか》の身は何も至り兼ね候事のみなれぬこととて何かと失策《しくじり》のみいたし誠に困り入り参らせ候 ただただ一日も早く御《おん》帰り遊ばし健やかなるお顔を拝し候時を楽しみに毎日暮らしおり参らせ候
 赤坂の方も何ぞかわり候事も無之《これなく》先日より逗子《ずし》の別荘の方へ一同《みなみな》まいり加藤家も皆々|興津《おきつ》の方へまいり東京はさびしきことに相成り参らせ候 幾《いく》も一緒に逗子に罷《まか》り越し無事相つとめおり参らせ候 御伝言《おんことづけ》の趣申しつかわし候ところ当人も涙を流して喜び申し候由くれぐれもよろしく御《おん》礼申し上げ候よう申し越し参らせ候
 わたくし事も今になりていろいろ勉強の足らざりしを憾《うら》み参らせ候 家政の事は女の本分なればよくよく心を用い候よう平生《かねがね》父より戒められ候事とて宅におり候ころよりなるたけそのつもりにて居《い》参らせ候えども何を申しても女のあさはかにそのような事はいつでもできるように思いいたずらに過ごし参らせ候より今となりてあの事も習って置けばよかりしこの事も忘れしと思いあたる事のみ多く困り入り参らせ候 英語の勉強も御仰《おんおお》せの言《こと》も有之《これあり》候えばぜひにと心がけ参らせ候えども机の前にばかりすわり候ては母上様の御思召《おぼしめし》もいかがと存ぜられ今しばらくは何よりもまず家政のけいこに打ちかかり申したく何とぞ何とぞ悪《あ》しからず思召《おぼしめし》のほど願い上げ参らせ候
 誠におはずかしき事に候えどもどうやらいたし候節はさびしさ悲しさのやる瀬なく早く早く早く御《おん》目にかかりたく翼あらばおそばに飛んでも行きたく存じ参らせ候事も有之《これあり》夜ごと日ごとにお写真とお艦《ふね》の写真を取り出《い》でてはながめ入り参らせ候 万国地理など学校にては何げなく看過《みす》ごしにいたし候ものの近ごろは忘れし地図など今さらにとりいでて今日はお艦《ふね》のこのあたりをや過ぎさせたまわん明日《あす》は明後日《あさって》はと鉛筆にて地図の上をたどり居参らせ候 ああ男に生まれしならば水兵ともなりて始終おそば離れずおつき申さんをなどあらぬ事まで心に浮かびわれとわが身をしかり候ても日々物思いに沈み参らせ候 これまで何心なく目もとめ申さざりし新聞の天気予報など今|在《いま》すあたりはこのほかと知りながら風など警戒のいで候節は実に実に気にかかり参らせ候 何とぞ何とぞお尊体《からだ》を御《おん》大切に……(下文略)
[#1字下げここまで]
[#この行、下揃え、下から3字上げ]浪より
   恋しき
     武男様

     〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 [#これより手紙文、1字下げ]
(上略)近ごろは夜々《よるよる》御《おん》姿の夢に入り実に実に一日千秋の思いをなしおり参らせ候 昨夜もごいっしょに艦《ふね》にて伊香保に蕨《わらび》とりにまいり候ところふとたれかが私《わたくし》どもの間に立ち入りてお姿は遠くなりわたくしは艦《ふね》より落ちると見て魘《おそ》われ候ところを母上様に
前へ 次へ
全79ページ中20ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳冨 蘆花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング