ざと召使いの者を例の大音声《だいおんじょう》にしかり飛ばさるるその声は、十年がほども継母の雄弁冷語を聞き尽くしたる耳にも今さらのように聞こえぬ。それも初めしばしがほどにて、後には癇癪《かんしゃく》の鋒《ほこさき》直接に吾身《われ》に向かうようになりつ。幾が去りし後は、たれ慰むる者もなく、時々はどうやらまた昔の日陰に立ち戻りし心地《ここち》もせしが、部屋《へや》に帰って机の上の銀の写真掛けにかかったたくましき海軍士官の面影《おもかげ》を見ては、うれしさ恋しさなつかしさのむらむらと込み上げて、そっと手にとり、食い入るようにながめつめ、キッスし、頬《ほお》ずりして、今そこにその人のいるように「早く帰ッてちょうだい」とささやきつ。良人《おっと》のためにはいかなる辛抱も楽しと思いて、われを捨てて姑に事《つか》えぬ。

     七の一

[#これより手紙文、1字下げ]
 流汗を揮《ふる》いつつ華氏九十九度の香港《ほんこん》より申し上げ候《そろ》。佐世保《させほ》抜錨《ばつびょう》までは先便すでに申し上げ置きたる通りに有之《これあり》候。さて佐世保出帆後は連日の快晴にて暑気|燬《や》くがごとく、さすが神州海国男子も少々|辟易《へきえき》、もっとも同僚士官及び兵のうち八九名日射病に襲われたる者|有之《これあり》候えども、小生は至極健全、毫《ごう》も病室の厄介に相成り申さず。ただしご存じ通りの黒人《くろんぼう》が赤道近き烈日に焦がされたるため、いよいよもって大々的黒面漢と相成り、今日《こんにち》ちょっと同僚と上陸し、市中の理髪店にいたり候ところ、ふと鏡を見てわれながらびっくりいたし候。意地《いじ》わるき同僚が、君、どう、着色写真でも撮《と》って、君のブライドに送らんかと戯れ候も一興に候。途中は右の通り快晴(もっとも一回モンスーンの来襲ありたれども)一同万歳を唱えて昨早朝|錨《いかり》を当湾内に投じ申し候。
 先日のお手紙は佐世保にて落手、一読再読いたし候。母上リョウマチス、年来の御持病、誠に困りたる事に候。しかし今年は浪さんが控えられ候事ゆえ、小生も大きに安心に候。何とぞ小生に代わりてよくよく心を御用《おんもち》いくださるべく候。御病気の節は別して御気分よろしからざる方なれば、浪さんも定めていろいろと骨折らるべく遙察《ようさつ》いたし候。赤坂の方も定めておかわりもなかるべくと存じ申し候。加藤の伯父さんは相変わらず木鋏《きばさみ》が手を放れ申すまじきか。
 幾姥《いくばあ》は帰り候由。何ゆえに候や存ぜず候えども、実に残念の事どもに候。浪さんより便《たより》あらばよろしくよろしく伝えらるべく、帰りには姥《ばあ》へ沢山|土産《みやげ》を持って来ると御伝《おんつた》えくだされたく候。実に愉快な女にて小生も大好きに候ところ、赤坂の方に帰りしは残念に候。浪さんも何かと不自由にさびしかるべくと存じ候。加藤の伯母様や千鶴子《ちずこ》さんは時々まいられ候や。
 千々岩《ちぢわ》はおりおりまいり候由。小生らは誠に親類少なく、千々岩はその少なき親類の一|人《にん》なれば、母上も自然頼みに思《おぼ》す事に候。同人をよく待《たい》するも母上に孝行の一に有之《これある》べく候。同人も才気あり胆力ある男なれば、まさかの時の頼みにも相成るべく候。(下略)
[#1字下げここまで]
香港にて[#この行、下揃え、下から5字上げ、相対的に字が小さい]
    七月 日[#この行ここまで相対的に字が小さい、ここからは下揃え、下から3字上げ]武 男
   お浪どの

[#これより手紙文、1字下げ]
 母上に別紙(略之)読んでお聞かせ申し上げられたく候。
 当池には四五日|碇泊《ていはく》、食糧など買い入れ、それよりマニラを経て豪州シドニーへ、それよりニューカレドニア、フィジー諸島を経て、サンフランシスコへ、それよりハワイを経て帰国のはずに候。帰国は多分秋に相成り申すべく候。
 手紙はサンフランシスコ日本領事館留め置きにして出したまえ。
[#1字下げここまで]

     〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

[#これより手紙文、1字下げ]
 (前文略)去る五月は浪さんと伊香保にあり、蕨《わらび》採りて慰みしに今は南半球なる豪州シドニーにあり、サウゾルンクロッスの星を仰いでその時を想《おも》う。奇妙なる世の中に候。先年練習艦にて遠洋航海の節は、どうしても時々|船暈《ふなよい》を感ぜしが、今度は無病息災われながら達者なるにあきれ候。しかし今回は先年に覚えなき感情身につきまとい候。航海中当直の夜《よ》など、まっ黒き空に金剛石をまき散らしたるような南天を仰ぎて、ひとり艦橋の上に立つ時は、何とも言い難き感が起こりて、浪さんの姿が目さきにちらちらいたし(女々《めめ》しと笑いたもうな)候。同僚の前ではさもあらばあ
前へ 次へ
全79ページ中19ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳冨 蘆花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング