ふたり相対《あいむか》いてしばし黙然《もくねん》としていたりしが、老爺《じじい》はさすがに気の毒と思い返ししように、
 「ちょいと戸を明けますべえ。旦那様、お茶でも上がってまあお休みなさッておいでなせエましよ」
 「何、かまわずに置いてもらおう。ちょっと通りかかりに寄ったんだ」
 言いすてて武男はかつて来なれし屋敷|内《うち》を回り見れば、さすがに守《も》る人あれば荒れざれど、戸はことごとくしめて、手水鉢《ちょうずばち》に水絶え、庭の青葉は茂りに茂りて、ところどころに梅子《うめのみ》こぼれ、青々としたる芝生《しばふ》に咲き残れる薔薇《ばら》の花半ばは落ちて、ほのかなる香《かおり》は庭に満ちたり。いずくにも人の気《け》はなくて、屋後《おくご》の松に蝉《せみ》の音《ね》のみぞかしましき。
 武男は※[#「※」は「つつみがまえ」+「夕」、第3水準1−14−76、205−14]々《そうそう》に老爺《じじい》に別れて、頭《かしら》をたれつつ出《い》で去りぬ。
 五六日を経て、武男はまた家を辞して遠く南征の途に上ることとなりぬ。家に帰りて十余日、他の同僚は凱旋《がいせん》の歓迎のとおもしろく騒ぎて過ごせるに引きかえて、武男はおもしろからぬ日を送れり。遠く離れてはさすがになつかしかりし家も、帰りて見れば思いのほかにおもしろき事もなくて、武男はついにその心の欠陥《あき》を満たすべきものを得ざりしなり。
 母もそれと知りて、苦々しく思えるようすはおのずから言葉の端にあらわれぬ。武男も母のそれと知れるをば知り得て、さしむかいて語るごとに、ものありて間を隔つるように覚えつ。されば母子の間はもとのごとき破裂こそなけれ、武男は一年後の今のかえってもとよりも母に遠ざかれるを憾《うら》みて、なお遠ざかるをいかんともするあたわざりき。母子《ぼし》は冷然として別れぬ。
 横須賀より乗るべかりしを、出発に垂《なんな》んとして障《さわり》ありて一|日《じつ》の期をあやまりたれば、武男は呉《くれ》より乗ることに定め、六月の十日というに孤影|蕭然《しょうぜん》として東海道列車に乗りぬ。

    八の一

 宇治《うじ》の黄檗山《おうばくざん》を今しも出《い》で来たりたる三人《みたり》連れ。五十余りと見ゆる肥満の紳士は、洋装して、金頭《きんがしら》のステッキを持ち、二十《はたち》ばかりの淑女は黒綾《くろあや》の洋傘《パラソル》をかざし、そのあとより五十あまりの婢《おんな》らしきが信玄袋をさげて従いたり。
 三人《みたり》の出《い》で来たるとともに、門前に待ち居し三|輛《りょう》の車がらがらと引き来るを、老紳士は洋傘《パラソル》の淑女を顧みて
 「いい天気じゃ。すこし歩いて見てはどうか」
 「歩きましょう」
 「お疲れは遊ばしませんか」と婢《おんな》は口を添えつ。
 「いいよ、少しは歩いた方が」
 「じゃ疲れたら乗るとして、まあぶらぶら歩いて見るもいいじゃろう」
 三輛の車をあとに従えつつ、三人はおもむろに歩み初めぬ。いうまでもなく、こは片岡中将の一行なり。昨日《きのう》奈良《なら》より宇治に宿りて、平等院を見、扇の芝の昔を弔《とむら》い、今日《きょう》は山科《やましな》の停車場より大津《おおつ》の方《かた》へ行かんとするなり。
 片岡中将は去《さんぬ》る五月に遼東より凱旋しつ。一日浪子の主治医を招きて書斎に密談せしが、その翌々日より、浪子を伴ない、婢《ひ》の幾を従えて、飄然《ひょうぜん》として京都に来つ。閑静なる河《かわ》ぞいの宿をえらみて、ここを根拠地と定めつつ、軍服を脱ぎすてて平服に身を包み、人を避け、公会の招きを辞して、ただ日々《にちにち》浪子を連れては彼女《かれ》が意のむかうままに、博覧会を初め名所|古刹《こさつ》を遊覧し、西陣に織り物を求め、清水《きよみず》に土産《みやげ》を買い、優遊の限りを尽くして、ここに十余日を過ぎぬ。世間《よ》はしばし中将の行くえを失いて、浪子ひとりその父を占めけるなり。
 「黄檗《おうばく》を出れば日本の茶摘みかな」茶摘みの盛季《さかり》はとく過ぎたれど、風は時々|焙炉《ほうろ》の香を送りて、ここそこに二番茶を摘む女の影も見ゆなり。茶の間々《あいあい》は麦黄いろく熟《う》れて、さくさくと鎌《かま》の音聞こゆ。目を上ぐれば和州の山遠く夏がすみに薄れ、宇治川は麦の穂末を渡る白帆《しらほ》にあらわれつ。かなたに屋根のみ見ゆる村里より午鶏の声ゆるく野づらを渡り来て、打ち仰ぐ空には薄紫に焦がれし雲ふわふわと漂いたり。浪子は吐息つきぬ。
 たちまち左手《ゆんで》の畑|路《みち》より、夫婦と見ゆる百姓二人話しもて出《い》で来たりぬ。午餉《ひるげ》を終えて今しも圃《はた》に出《い》で行くなるべし。男は鎌を腰にして、女は白手ぬぐいをかむり、歯を染
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