香保の片《かた》に行きぬ。
四の一
午後三時高崎発上り列車の中等室のかたすみに、人なきを幸い、靴ばきのまま腰掛けの上に足さしのばして、巻莨《まきたばこ》をふかしつつ、新聞を読みおるは千々岩安彦なり。
手荒く新聞を投げやり、
「ばか!」
歯の間よりもの言う拍子に落ちし巻莨を腹立たしげに踏み消し、窓の外に唾《つば》はきしまましばらくたたずみていたるが、やがて舌打ち鳴らして、室の全長《ながさ》を二三|度《ど》往来《ゆきき》して、また腰掛けに戻りつ。手をこまぬきて、目を閉じぬ。まっ黒き眉《まゆ》は一文字にぞ寄りたる。
*
千々岩安彦は孤《みなしご》なりき。父は鹿児島《かごしま》の藩士にて、維新の戦争に討死《うちじに》し、母は安彦が六歳の夏そのころ霍乱《かくらん》と言いけるコレラに斃《たお》れ、六歳の孤児は叔母《おば》――父の妹の手に引き取られぬ。父の妹はすなわち川島武男の母なりき。
叔母はさすがに少しは安彦をあわれみたれども、叔父《おじ》はこれを厄介者に思いぬ。武男が仙台平《せんだいひら》の袴《はかま》はきて儀式の座につく時、小倉袴《こくらばかま》の萎《な》えたるを着て下座にすくまされし千々岩は、身は武男のごとく親、財産、地位などのあり余る者ならずして、全くわが拳《こぶし》とわが知恵に世を渡るべき者なるを早く悟り得て、武男を悪《にく》み、叔父をうらめり。
彼は世渡りの道に裏と表の二条《ふたすじ》あるを見ぬきて、いかなる場合にも捷径《しょうけい》をとりて進まんことを誓いぬ。されば叔父の陰によりて陸軍士官学校にありける間も、同窓の者は試験の、点数のと騒ぐ間《ま》に、千々岩は郷党の先輩にも出入り油断なく、いやしくも交わるに身の便宜《たより》になるべき者を選み、他の者どもが卒業証書握りてほっと息つく間《ま》に、早くも手づるつとうて陸軍の主脳なる参謀本部の囲い内《うち》に乗り込み、ほかの同窓生《なかま》はあちこちの中隊付きとなりてそれ練兵やれ行軍と追いつかわるるに引きかえて、千々岩は参謀本部の階下に煙吹かして戯談《じょうだん》の間に軍国の大事もあるいは耳に入るうらやましき地位に巣くいたり。
この上は結婚なり。猿猴《えんこう》のよく水に下るはつなげる手あるがため、人の立身するはよき縁あるがためと、早くも知れる彼は、戸籍吏ならねども、某男爵は某侯爵の婿、某学士兼高等官は某伯の婿、某富豪は某伯の子息の養父にて、某侯の子息の妻《さい》も某富豪の女《むすめ》と暗に指を折りつつ、早くもそこここと配れる眼《まなこ》は片岡《かたおか》陸軍中将の家に注ぎぬ。片岡中将としいえば、当時予備にこそおれ、驍名《ぎょうめい》天下に隠れなく、畏《かしこ》きあたりの御覚《おんおぼ》えもいとめでたく、度量|濶大《かつだい》にして、誠に国家の干城と言いつべき将軍なり。千々岩は早くこの将軍の隠然として天下に重き勢力を見ぬきたれば、いささかの便《たより》を求めて次第に近寄り、如才なく奥にも取り入りつ。目は直ちに第一の令嬢浪子をにらみぬ。一には父中将の愛おのずからもっとも深く浪子の上に注ぐをいち早く看《み》て取りしゆえ、二には今の奥様はおのずから浪子を疎《うと》みてどこにもあれ縁あらば早く片づけたき様子を見たるため、三にはまた浪子のつつしみ深く気高《けだか》きを好ましと思う念もまじりて、すなわちその人を目がけしなり。かくて様子を見るに中将はいわゆる喜怒容易に色にあらわれぬ太腹の人なれば、何と思わるるかはちと測り難けれど、奥様の気には確かに入りたり。二番目の令嬢の名はお駒《こま》とて少し跳《は》ねたる三五の少女《おとめ》はことにわれと仲よしなり。その下には今の奥様の腹にて、二人《ふたり》の子供あれど、こは問題のほかとしてここに老女の幾《いく》とて先の奥様の時より勤め、今の奥様の輿入《こしいれ》後奥台所の大更迭を行われし時も中将の声がかりにて一人《ひとり》居残りし女、これが終始浪子のそばにつきてわれに好意の乏しきが邪魔なれど、なあに、本人の浪子さえ攻め落とさばと、千々岩はやがて一年ばかり機会をうかがいしが、今は待ちあぐみてある日宴会帰りの酔《え》いまぎれ、大胆にも一通の艶書《えんしょ》二重《ふたえ》封《ふう》にして表書きを女|文字《もじ》に、ことさらに郵便をかりて浪子に送りつ。
その日命ありてにわかに遠方に出張し、三月あまりにして帰れば、わが留守に浪子は貴族院議員|加藤《かとう》某《なにがし》の媒酌《ばいしゃく》にて、人もあるべきにわが従弟《いとこ》川島武男と結婚の式すでに済みてあらんとは! 思わぬ不覚をとりし千々岩は、腹立ちまぎれに、色よき返事このようにと心に祝いて土産《みやげ》に京都より買《こ》うて来し友染縮緬《ゆうぜんちりめん》ずたずたに
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