嚢《かばん》を載せて停車場《ステーション》の方より来る者、面《おもて》黒々と日にやけてまだ夏服の破れたるまま宇品《うじな》より今上陸して来つと覚しき者と行き違い、新聞の写真付録にて見覚えある元老の何か思案顔に車を走らすこなたには、近きに出発すべき人夫が鼻歌歌うて往来をぶらつけば、かなたの家の縁さきに剣をとぎつつ健児が歌う北音の軍歌は、川向こうのなまめかしき広島節に和して響きぬ。
 「陸軍御用達」と一間あまりの大看板、その他看板二三枚、入り口の三方にかけつらねたる家の玄関先より往来にかけて粗製|毛布《けっと》防寒服ようのもの山と積みつつ、番頭らしきが若者五六人をさしずして荷造りに忙《せわ》しき所に、客を送りてそそくさと奥より出《い》で来し五十あまりの爺《おやじ》、額やや禿《は》げて目じりたれ左眼の下にしたたかな赤黒子《あかぼくろ》あるが、何か番頭にいいつけ終わりて、入らんとしつつたちまち門外を上手《かみて》に過ぎ行く車を目がけ
 「田崎|君《さん》……田崎|君《さん》」
 呼ぶ声の耳に入らざりしか、そのままに過ぎ行くを、若者して呼び戻さすれば、車は門に帰りぬ。車上の客は五十あまり、色赤黒く、頬《ほお》ひげ少しは白きもまじり、黒紬《くろつむぎ》の羽織に新しからぬ同じ色の中山帽《ちゅうやま》をいただき蹴込《けこ》みに中形の鞄《かばん》を載せたり。呼び戻されてけげんの顔は、玄関に立ちし主人を見るより驚きにかわりて、帽《ぼう》を脱ぎつつ
 「山木さんじゃないか」
 「田崎|君《さん》、珍しいね。いったいいつ来たンです?」
 「この汽車で帰京《かえ》るつもりで」と田崎は車をおり、筵繩《むしろなわ》なんど取り散らしたる間を縫いて玄関に寄りぬ。
 「帰京《かえる》? どこにいつおいでなので?」
 「はあ、つい先日佐世保に行って、今|帰途《かえり》です」
 「佐世保? 武男さん――旦那《だんな》のお見舞?」
 「はあ、旦那の見舞に」
 「これはひどい、旦那の見舞に行きながら往返《いきかえり》とも素通りは実にひどい。娘も娘、御隠居も御隠居だ、はがきの一枚も来ないものだから」
 「何、急ぎでしたからね」
 「だッて、行きがけにちょっと寄ってくださりゃよかったに。とにかくまあお上がんなさい。車は返して。いいさ、お話もあるから。一汽車おくれたッていいだろうじゃないか。――ところで武男さん――旦那の負傷《けが》はいかがでした? 実はわたしもあの時お負傷《けが》の事を聞いたンで、ちょいとお見舞に行かなけりゃならんならんと思ってたンだが、思ったばかりで、――ちょうど第一師団が近々《ちかぢか》にでかけるというンで、滅法忙しかったもンですから、ついその何で、お見舞状だけあげて置いたンでしたが。――ああそうでしたか、別に骨にも障《さわ》らなかったですね、大腿部《だいたいぶ》――はあそうですか。とにかく若い者は結構ですな。お互いに年寄りはちょっと指さきに刺《とげ》が立っても、一週間や二週間はかかるが、旦那なんざお年が若いものだから――とにかく結構おめでたい事でした。御隠居も御安心ですね」
 中腰に構えし田崎は時計を出《いだ》し見つ、座を立たんとするを、山木は引きとめ
 「まあいいさ。幸いのついでで、少し御隠居に差し上げたいものもあるから。夜汽車になさい。夜汽車だとまだ大分《だいぶ》時間がある。ちょっと用を済まして、どこぞへ行って、一杯やりながら話すとしましょう。広島《ここ》の魚《さかな》は実にうまいですぜ」
 口は肴《さかな》よりもなおうまかるべし。

     二の二

 秋の夕日|天安川《あまやすがわ》に流れて、川に臨める某亭《なにがしてい》の障子を金色《こんじき》に染めぬ。二階は貴衆両院議員の有志が懇親会とやら抜けるほどの騒ぎに引きかえて、下の小座敷は婢《おんな》も寄せずただ二人《ふたり》話しもて杯《さかずき》をあぐるは山木とかの田崎と呼ばれたる男なり。
 この田崎は、武男が父の代より執事の役を務めて、今もほど近きわが家《や》より日々川島家に通いては、何くれと忠実《まめやか》に世話をなしつ。如才なく切って回す力量なきかわりには、主家の収入をぬすみてわがふところを肥やす気づかいなきがこの男の取り柄と、武男が父は常に言いぬ。されば川島|未亡人《いんきょ》にも武男にも浅からぬ信任を受けて、今度も未亡人《いんきょ》の命によりてはるばる佐世保に主人の負傷をば見舞いしなり。
 山木は持ったる杯を下に置き、額のあたりをなでながら「実は何ですて、わたしも帰京《かえり》はしても一日泊まりですぐとまた広島《ここ》に引き返すというようなわけで、そんな事も耳に入らなかッたですが。それでは何ですね、あれから浪子さんもよほどわるかッたのですね。なるほどどうもちっとひどかったね。しかしとも
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