日午後五時、わが連合艦隊は戦闘準備を整えて大同江口《だいどうこうこう》を発し、西北に向かいて進みぬ。あたかも運送船を護して鴨緑江口《おうりょっこうこう》付近に見えしという敵の艦隊を尋ねいだして、雌雄を一戦に決せんとするなり。
吉野《よしの》を旗艦として、高千穂《たかちほ》、浪速《なにわ》、秋津洲《あきつしま》の第一遊撃隊、先鋒《せんぽう》として前にあり。松島を旗艦として千代田《ちよだ》、厳島《いつくしま》、橋立《はしだて》、比叡《ひえい》、扶桑《ふそう》の本隊これに続《つ》ぎ、砲艦|赤城《あかぎ》及び軍《いくさ》見物と称する軍令部長を載せし西京丸《さいきょうまる》またその後ろにしたがいつ。十二隻の艨艟《もうどう》一縦列をなして、午後五時大同江口を離れ、伸びつ縮みつ竜のごとく黄海の潮《うしお》を巻いて進みぬ。やがて日は海に入りて、陰暦八月十七日の月東にさし上り、船は金波銀波をさざめかして月色《げっしょく》のうちをはしる。
旗艦松島の士官次室《ガンルーム》にては、晩餐《ばんさん》とく済みて、副直その他要務を帯びたるは久しき前に出《い》で去りたれど、なお五六人の残れるありて、談まさに興に入れるなるべし。舷窓《げんそう》をば火光《あかり》を漏らさじと閉ざしたれば、温気|内《うち》にこもりて、さらぬだに血気盛りの顔はいよいよ紅《くれない》に照れり。テーブルの上には珈琲碗《かひわん》四つ五つ、菓子皿はおおむねたいらげられて、ただカステーラの一片がいづれの少将軍に屠《ほふ》られんかと兢々《きょうきょう》として心細げに横たわるのみ。
「陸軍はもう平壌《へいじょう》を陥《おと》したかもしれないね」と短小|精悍《せいかん》とも言いつべき一少尉は頬杖《ほおづえ》つきたるまま一座を見回したり。「しかるにこっちはどうだ。実に不公平もまたはなはだしというべしじゃないか」
でっぷりと肥えし小主計は一隅《いちぐう》より莞爾《かんじ》と笑いぬ。「どうせ幕が明くとすぐ済んでしまう演劇《しばい》じゃないか。幕合《まくあい》の長いのもまた一興だよ」
「なんて悠長《ゆうちょう》な事を言うから困るよ。北洋艦隊《ぺいやん》相手の盲捉戯《めくらおにご》ももうわが輩はあきあきだ。今度もかけちがいましてお目にかからんけりゃ、わが輩は、だ、長駆|渤海《ぼっかい》湾に乗り込んで、太沽《ターク》の砲台に砲丸の一つもお見舞い申さんと、堪忍袋《かんにんぶくろ》がたまらん」
「それこそ袋のなかに入るも同然、帰路を絶たれたらどうです?」まじめに横槍《よこやり》を入るるは候補生の某なり。
「何、帰路を絶つ? 望む所だ。しかし悲しいかな君の北洋艦隊はそれほど敏捷《びんしょう》にあらずだ。あえてけちをつけるわけじゃないが、今度も見参はちとおぼつかないね。支那人の気の長いには実に閉口する」
おりから靴音の近づきて、たけ高き一少尉入り口に立ちたり。
短小少尉はふり仰ぎ「おお航海士、どうだい、なんにも見えんか」
「月ばかりだ。点検が済んだら、すべからく寝て鋭気を養うべしだ」言いつつ菓子皿に残れるカステーラの一片を頬《ほお》ばり「むむ、少し……甲板《かんぱん》に出ておると……腹が減るには驚く。――従卒《ボーイ》、菓子を持って来い」
「君も随分食うね」と赤きシャツを着たる一少尉は微笑《ほほえ》みつ。
「借問《しゃもん》す君はどうだ。菓子を食って老人組を罵倒《ばとう》するは、けだしわが輩|士官次室《ガンルーム》の英雄の特権じゃないか。――どうだい、諸君、兵はみんな明日《あす》を待ちわびて、目がさえて困るといってるぞ。これで失敗があったら実に兵の罪にあらず、――の罪だ」
「わが輩は勇気については毫《ごう》も疑わん。望む所は沈勇、沈勇だ。無手法《むてっぽう》は困る」というはこの仲間にての年長なる甲板士官《メート》。
「無手法といえば、○番分隊士は実に驚くよ」と他の一|人《にん》はことばをさしはさみぬ。「勉励も非常だが、第一いかに軍人は生命《いのち》を愛《お》しまんからッて、命の安売りはここですと看板もかけ兼ねん勢いはあまりだと思うね」
「ああ、川島か、いつだッたか、そうそう、威海衛砲撃の時だッてあんな険呑《けんのん》な事をやったよ。川島を司令長官にしたら、それこそ三番分隊士《さんばん》じゃないが、艦隊を渤海湾に連れ込んで、太沽《ターク》どころじゃない、白河《ペイホー》をさかのぼって李《リー》のおやじを生けどるなんぞ言い出すかもしれん」
「それに、ようすが以前《まえ》とはすっかり違ったね。非常に怒《おこ》るよ。いつだッたか僕が川島男爵夫人《バロネスかわしま》の事についてさ、少しからかいかけたら、まっ黒に怒って、あぶなく鉄拳《てっけん》を頂戴《ちょうだい》する所さ。僕は鎮遠の三十サンチ
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