いたりしその武男は今帰り来たれるなり。加藤子爵夫人が急を報ぜしその書は途中に往《ゆ》き違いて、もとより母はそれと言い送らねば、知る由もなき武男は横須賀《よこすか》に着きて暇《いとま》を得《う》るやいな急ぎ帰り来たれるなり。
今奥より出《い》で来たりし仲働きは、茶を入れおりし小間使いを手招き、
「ねエ松ちゃん。旦那さまはちっともご存じないようじゃないか。奥様にお土産《みやげ》なんぞ持っていらッしたよ」
「ほんとにしどいね。どこの世界に、旦那の留守に奥様を離縁しちまう母《おっか》さんがあるものかね。旦那様の身になっちゃア、腹も立つはずだわ。鬼|婆《ばば》め」
「あれくらいいやな婆《ばば》っちゃありゃしない。けちけちの、わからずやの、人をしかり飛ばすがおやくめだからね、なんにもご存じなしのくせにさ。そのはずだよ、ねエ、昔は薩摩《さつま》でお芋《いも》を掘ってたンだもの。わたしゃもうこんな家《うち》にいるのが、しみじみいやになッちゃった」
「でも旦那様も旦那様じゃないか。御自分の奥様が離縁されてしまうのもちょっとも知らんてえのは、あんまり七月のお槍《やり》じゃないかね」
「だッて、そらア無理ゃないわ。遠方にいらっしたンだもの。だれだって、下女《おんな》じゃあるまいし、肝心な子息《むすこ》に相談もしずに、さっさと※[#「※」は「おんなへん+息」、第4水準2−5−70、139−8]《よめ》を追い出してしまおうた思わないわね。それに旦那様もお年が若いからねエ。ほんとに旦那様もおかあいそう――奥様はなおおかあいそうだわ。今ごろはどうしていらッしゃるだろうねエ。ああいやだ――ほウら、婆《ばば》あが怒鳴りだしたよ。松ちゃんせッせとしないと、また八つ当たりでおいでるよ」
奥の一間には母子の問答次第に熱しつ。
「だッて、あの時あれほど申し上げて置いたです。それに手紙一本くださらず、無断で――実にひどいです。実際ひどいです。今日もちょいと逗子に寄って来ると、浪はおらんでしょう、いくに尋ねると何か要があって東京に帰ったというです。変と思ったですが、まさか母《おっか》さんがそんな事を――実にひどい――」
「それはわたしがわるかった。わるかったからこの通り親がわびをしておるじゃなッかい。わたしじゃッて何も浪が悪《にく》かというじゃなし、卿《おまえ》がかあいいばッかいで――」
「母《おっか》さんはからだばッかり大事にして、名誉も体面も情もちょっとも思ってくださらんのですな。あんまりです」
「武男、卿《おまえ》はの、男かい。女じゃあるまいの。親にわび言《ごと》いわせても、やっぱい浪が恋しかかい。恋しかかい。恋しかか」
「だッて、あんまりです、実際あんまりです」
「あんまいじゃッて、もう後《あと》の祭《まつい》じゃなッか。あっちも承知して、きれいに引き取ったあとの事じゃ。この上どうすッかい。女々《めめ》しか事をしなはッと、親の恥ばッかいか、卿《おまえ》の男が立つまいが」
黙然《もくねん》と聞く武男は断《き》れよとばかり下くちびるをかみつ。たちまち勃然《ぼつねん》と立ち上がって、病妻にもたらし帰りし貯林檎《かこいりんご》の籠《かご》をみじんに踏み砕き、
「母《おっか》さん、あなたは、浪を殺し、またそのうえにこの武男をお殺しなすッた。もうお目にかかりません」
*
武男は直ちに横須賀なる軍艦に引き返しぬ。
韓山《かんざん》の風雲はいよいよ急に、七|月《げつ》の中旬|廟堂《びょうどう》の議はいよいよ清国《しんこく》と開戦に一決して、同月十八日には樺山《かばやま》中将新たに海軍軍令部長に補せられ、武男が乗り組める連合艦隊旗艦松島号は他の諸艦を率いて佐世保に集中すべき命を被《こうむ》りつ。捨てばちの身は砲丸の的《まと》にもなれよと、武男はまっしぐらに艦《ふね》とともに西に向かいぬ。
*
片岡陸軍中将は浪子の帰りしその翌日より、自らさしずして、邸中の日あたりよく静かなるあたりをえらびて、ことに浪子のために八畳一間六畳二間四畳一間の離家《はなれ》を建て、逗子より姥《うば》のいくを呼び寄せて、浪子とともにここに棲《す》ましつ。九月にはいよいよ命ありて現役に復し、一|夕《せき》夫人|繁子《しげこ》を書斎に呼びて懇々浪子の事を託したる後、同十三日|大纛《だいとう》に扈従《こしょう》して広島大本営におもむき、翌月さらに大山大将《おおやまたいしょう》山路《やまじ》中将と前後して遼東《りょうとう》に向かいぬ。
われらが次を逐《お》うてその運命をたどり来たれる敵も、味方も、かの消魂も、この怨恨《えんこん》も、しばし征清《せいしん》戦争の大渦に巻き込まれつ。
[#改丁]
下 編
一の一
明治二十七年九月十六
前へ
次へ
全79ページ中48ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳冨 蘆花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング