器をちょっと燈火《あかり》に透かし見て、今宵《こよい》は常よりも上らぬ熱を手柄顔に良人《おっと》に示しつつ、筒に収め、しばらくテーブルの桜花《さくら》を見るともなくながめていたりしが、たちまちほほえみて
「もう一年たちますのねエ、よウくおぼえていますよ、あの時馬車に乗って出ると家内《みんな》の者が送って出てますから何とか言いたかったのですけどどうしても口に出ませんの。おほほほ。それから溜池橋《ためいけばし》を渡るともう日が暮れて、十五夜でしょう、まん丸な月が出て、それから山王《さんのう》のあの坂を上がるとちょうど桜花《さくら》の盛りで、馬車の窓からはらはらはらはらまるで吹雪《ふぶき》のように降り込んで来ましてね、ほほほ、髷《まげ》に花びらがとまってましたのを、もうおりるという時、気がついて伯母がとってくれましたッけ」
武男はテーブルに頬杖《ほおづえ》つき「一年ぐらいたつな早いもんだ。かれこれするとすぐ銀婚式になっちまうよ。はははは、あの時浪さんの澄まし方といったらはッははは思い出してもおかしい、おかしい。どうしてああ澄まされるかな」
「でも、ほほほほ――あなたも若殿様できちんと澄ましていらッしたわ。ほほほほ手が震えて、杯がどうしても持てなかったンですもの」
「大分《だいぶ》おにぎやかでございますねエ」といくはにこにこ笑《え》みつつ鉄瓶《てつびん》を持ちて再び入り来つ。「ばあやもこんなに気分が清々《せいせい》いたしたことはありませんでございますよ。ごいっしょにこうしておりますと、昨年伊香保にいた時のような心地《こころもち》がいたしますでございますよ」
「伊香保はうれしかったわ!」
「蕨《わらび》狩りはどうだい、たれかさんの御足《おみあし》が大分重かッたっけ」
「でもあなたがあまりお急ぎなさるんですもの」と浪子はほほえむ。
「もうすぐ蕨の時候になるね。浪さん、早くよくなッて、また蕨|狩《と》りの競争しようじゃないか」
「ほほほ、それまでにはきっとなおりますよ」
四の四
明くる日は、昨夜《ゆうべ》の暴風雨《あらし》に引きかえて、不思議なほどの上天気。
帰京は午後と定めて、午前の暖かく風なき間《ま》を運動にと、武男は浪子と打ち連れて、別荘の裏口よりはらはら松の砂丘《すなやま》を過ぎ、浜に出《い》でたり。
「いいお天気、こんなになろうとは思いませんでしたねエ」
「実にいい天気だ。伊豆《いず》が近く見えるじゃないか、話でもできそうだ」
二人《ふたり》はすでに乾《かわ》ける砂を踏みて、今日の凪《なぎ》を地曳《じびき》すと立ち騒ぐ漁師《りょうし》、貝拾う子らをあとにし、新月|形《なり》の浜を次第に人少なき方《かた》に歩みつ。
浪子はふと思い出《い》でたるように「ねエあなた。あの――千々岩さんはどうしてらッしゃるでしょう?」
「千々岩? 実に不埒《ふらち》きわまるやつだ。あれから一度も会わンが。――なぜ聞くのかい?」
浪子は少し考え「イイエ、ね、おかしい事をいうようですが、昨夜《ゆうべ》千々岩さんの夢を見ましたの」
「千々岩の夢?」
「はあ。千々岩さんがお母さまと何か話をしていなさる夢を見ましたの」
「はははは、気沢山《きだくさん》だねエ、どんな話をしていたのかい」
「何かわからないのですけど、お母さまが何度もうなずいていらっしゃいましたわ。――お千鶴さんが、あの方と山木さんといっしょに連れ立っていなさるのを見かけたって話したから、こんな夢を見たのでしょうね。ねエ、あなた、千々岩さんが我等宅《うち》に出入りするようなことはありますまいね」
「そんな事はない、ないはずだ。母《おっか》さんも千々岩の事じゃ怒《おこ》っていなさるからね」
浪子は思わず吐息をつきつ。
「本当に、こんな病気になってしまって、おかあさまもさぞいやに思っていらッしゃいましょうねエ」
武男ははたと胸を衝《つ》きぬ。病める妻には、それといわねど、浪子が病みて地を転《か》えしより、武男は帰京するごとに母の機嫌《きげん》の次第に悪《あ》しく、伝染の恐れあればなるべく逗子には遠ざかれとまで戒められ、さまざまの壁訴訟の果ては昂《こう》じて実家《さと》の悪口《わるくち》となり、いささかなだめんとすれば妻をかばいて親に抗するたわけ者とののしらるることも、すでに一再に止《とど》まらざりけるなり。
「はははは、浪さんもいろいろな心配をするね。そんな事があるものかい。精出して養生して、来春《らいはる》はどうか暇を都合して、母《おっか》さんと三人|吉野《よしの》の花見にでも行くさ――やアもうここまで来てしまッた。疲れたろう。そろそろ帰らなくもいいかい」
二人は浜尽きて山起こる所に立てるなり。
「不動まで行きましょう、ね――イイエち
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