はさみたり。二人《ふたり》の間には、一脚の卓ありて、桃色のかさかけしランプはじじと燃えつつ、薄紅《うすくれない》の光を落とし、そのかたわらには白磁瓶《はくじへい》にさしはさみたる一枝の山桜、雪のごとく黙して語らず。今朝《けさ》別れ来し故山の春を夢むるなるべし。
 風雨の声|屋《おく》をめぐりて騒がし。
 武男は手紙を巻きおさめつ。「阿舅《おとうさん》もよほど心配しておいでなさる。どうせ明日《あす》はちょっと帰京《かえ》るから、赤坂へ回って来よう」
 「明日いらッしゃるの? このお天気に!――でもお母《かあ》様もお待ちなすッていらッしゃいましょうねエ。わたくしも行きたいわ!」
 「浪さんが!!![#「!!!」は一文字、95−13] とんでもない! それこそまっぴら御免こうむる。もうしばらくは流刑《しまながし》にあったつもりでいなさい。はははは」
 「ほほほ、こんな流刑《しまながし》なら生涯でもようござんすわ――あなた、巻莨《たばこ》召し上がれな」
 「ほしそうに見えるかい。まあよそう。そのかわり来る前の日と、帰った日は、二日|分《ぶり》のむのだからね。ははははは」
 「ほほほ、それじゃごほうびに、今いいお菓子がまいりますよ」
 「それはごちそうさま。大方お千鶴さんの土産《みやげ》だろう。――それは何かい、立派な物ができるじゃないか」
 「この間から日が永《なが》くッてしようがないのですから、おかあさまへ上げようと思ってしているのですけど――イイエ大丈夫ですわ、遊び遊びしてますから。ああ何だか気分が清々《せいせい》したこと。も少し起きさしてちょうだいな、こうしてますとちっとも病気のようじゃないでしょう」
 「ドクトル川島がついているのだもの、はははは。でも、近ごろは本当に浪さんの顔色がよくなッた。もうこっちのものだて」
 この時次の間よりかの老女のいくが、菓子|鉢《ばち》と茶盆を両手にささげ来つ。
 「ひどい暴風雨《しけ》でございますこと。旦那《だんな》様がいらッしゃいませんと、ねエ奥様、今夜《こんばん》なんざとても目が合いませんよ。飯田町《いいだまち》のお嬢様はお帰京《かえり》遊ばす、看護婦さんまで、ちょっと帰京《かえり》ますし、今日はどんなにさびしゅうございましてしょう、ねエ奥様。茂平《もへい》(老僕)どんはいますけれども」
 「こんな晩に船に乗ってる人の心地《こころもち》はどんなでしょうねエ。でも乗ってる人を思いやる人はなお悲しいわ!」
 「なあに」と武男は茶をすすり果てて風月の唐饅頭《とうまんじゅう》二つ三つ一息に平らげながら「なあに、これくらいの風雨《しけ》はまだいいが、南シナ海あたりで二日も三日も大暴風雨《おおしけ》に出あうと、随分こたえるよ。四千何百トンの艦《ふね》が三四十度ぐらいに傾いてさ、山のようなやつがドンドン甲板《かんぱん》を打ち越してさ、艦《ふね》がぎいぎい響《な》るとあまりいい心地《こころもち》はしないね」
 風いよいよ吹き募りて、暴雨一陣|礫《つぶて》のごとく雨戸にほとばしる。浪子は目を閉じつ。いくは身を震わしぬ。三人《みたり》が語《ことば》しばし途絶えて、風雨の音のみぞすさまじき。
 「さあ、陰気な話はもう中止だ。こんな夜《ばん》は、ランプでも明るくして愉快に話すのだ。ここは横須賀よりまた暖かいね、もうこんなに山桜が咲いたな」
 浪子は磁瓶《じへい》にさしし桜の花びらを軽《かろ》くなでつつ「今朝《けさ》老爺《じいや》が山から折って来ましたの。きれいでしょう。――でもこの雨風で山のはよっぽど散りましょうよ。本当にどうしてこんなに潔いものでしょう! そうそう、さっき蓮月《れんげつ》の歌にこんなのがありましたよ『うらやまし心のままにとく咲きて、すがすがしくも散るさくらかな』よく詠《よ》んでありますのねエ」
 「なに? すがすがしくも散る? 僕――わしはそう思うがね、花でも何でも日本人はあまり散るのを賞翫《しょうがん》するが、それも潔白でいいが、過ぎるとよくないね。戦争《いくさ》でも早く討死《うちじに》する方が負けだよ。も少し剛情にさ、執拗《しつこく》さ、気ながな方を奨励したいと思うね。それでわが輩――わしはこんな歌を詠んだ。いいかね、皮切りだからどうせおかしいよ、しつこしと、笑っちゃいかん、しつこしと人はいえども八重桜盛りながきはうれしかりけり、はははは梨本《なしもと》跣足《はだし》だろう」
 「まあおもしろいお歌でございますこと、ねエ奥様」
 「はははは、ばあやの折り紙つきじゃ、こらいよいよ秀逸にきまったぞ」
 話の途切れ目をまたひとしきり激しくなりまさる風雨の音、濤《なみ》の音の立ち添いて、家はさながら大海に浮かべる舟にも似たり。いくは鉄瓶《てつびん》の湯をかうるとて次に立ちぬ。浪子はさしはさみ居し体温
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