《むち》を続けざまに打ちおろすかのごとくに感ぜらるる、いわゆる「泣き面《つら》に蜂《はち》」の時期少なくとも一度はあるものなり。去年以来千々岩はこの瀬戸に舟やり入れて、今もって容易にその瀬戸を過ぎおわるべき見当のつかざるなりき。浪子はすでに武男に奪われつ。相場に手を出せば失敗を重ね、高利を借りれば恥をかき、小児《こども》と見くびりし武男には下司《げす》同然にはずかしめられ、ただ一|親戚《しんせき》たる川島家との通路は絶えつ。果てはただ一立身の捷逕《しょうけい》として、死すとも去らじと思える参謀本部の位置まで、一言半句の挨拶《あいさつ》もなくはぎとられて、このごろまで牛馬《うしうま》同様に思いし師団の一士官とならんとは。疵《きず》持つ足の千々岩は、今さら抗議するわけにも行かず、倒れてもつかむ馬糞《ばふん》の臭《しゅう》をいとわで、おめおめと練兵行軍の事に従いしが、この打撃はいたく千々岩を刺激して、従来事に臨んでさらにあわてず、冷静に「われ」を持したる彼をして、思うてここにいたるごとに、一|肚皮《とひ》の憤恨猛火よりもはげしく騰上し来たるを覚えざらしめたり。
 頭上に輝く名利の冠《かんむり》を、上らば必ず得《う》べき立身の梯子《はしご》に足踏みかけて、すでに一段二段を上り行きけるその時、突然|蹴《け》落とされしは千々岩が今の身の上なり。誰《た》が蹴落とせし。千々岩は武男が言葉の端より、参謀本部に長たる将軍が片岡中将と無二の昵懇《じっこん》なる事実よりして、少なくも中将が幾分の手を仮したるを疑いつ。彼はまた従来金には淡白なる武男が、三千金のために、――たとい偽印の事はありとも――法外に怒れるを怪しみて、浪子が旧《ふる》き事まで取り出《い》でてわれを武男に讒《ざん》したるにあらずやと疑いつ。思えば思うほど疑いは事実と募り、事実は怒火に油さし、失恋のうらみ、功名の道における蹉跌《さてつ》の恨み、失望、不平、嫉妬さまざまの悪感は中将と浪子と武男をめぐりて焔《ほのお》のごとく立ち上りつ。かの常にわが冷頭を誇り、情に熱して数字を忘るるの愚を笑える千々岩も、連敗の余のさすがに気は乱れ心狂いて、一|腔《こう》の怨毒《えんどく》いずれに向かってか吐き尽くすべき路《みち》を得ずば、自己――千々岩安彦が五尺の躯《み》まず破れおわらんずる心地《ここち》せるなり。
 復讎《ふくしゅう》、復讎、世に心よきはにくしと思う人の血をすすって、その頬《ほお》の一|臠《れん》に舌鼓うつ時の感なるべし。復讎、復讎、ああいかにして復讎すべき、いかにしてうらみ重なる片岡川島両家をみじんに吹き飛ばすべき地雷火坑を発見し、なるべくおのれは危険なき距離より糸をひきて、憎しと思う輩《やから》の心|傷《やぶ》れ腸《はらわた》裂け骨|摧《くじ》け脳|塗《まみ》れ生きながら死ぬ光景をながめつつ、快く一杯を過ごさんか。こは一月以来|夜《よ》となく日となく千々岩の頭《かしら》を往来せる問題なりき。
 梅花雪とこぼるる三月中旬、ある日千々岩は親しく往来せる旧同窓生の何某《なにがし》が第三師団より東京に転じ来たるを迎うるとて、新橋におもむきつ。待合室を出《い》づるとて、あたかも十五六の少女《おとめ》を連れし丈《たけ》高き婦人――貴婦人の婦人待合室より出で来たるにはたと行きあいたり。
 「お珍しいじゃございませんか」
 駒子《こまこ》を連れて、片岡子爵夫人|繁子《しげこ》はたたずめるなり。一瞬時、変われる千々岩の顔色は、先方の顔色をのぞいて、たちまち一変しつ。中将にこそ浪子にこそ恨みはあれ、少なくもこの人をば敵視する要なしと早くも心を決せるなり。千々岩はうやうやしく一礼して、微笑を帯び、
 「ついごぶさたいたしました」
 「ひどいお見限りようですね」
 「いや、ちょっとお伺い申すのでしたが、いろいろ職務上の要で、つい多忙だものですから――今日《きょう》はどちらへか?」
 「は、ちょっと逗子《ずし》まで――あなたは?」
 「何、ちょっと朋友《ともだち》を迎えにまいったのですが――逗子は御保養でございますか」
 「おや、まだご存じないのでしたね、――病人ができましてね」
 「御病人? どなたで?」
 「浪子です」
 おりからベルの鳴りて人は潮《うしお》のごとく改札口へ流れ行くに、少女《おとめ》は母の袖《そで》引き動かして
 「おかあさま、おそくなるわ」
 千々岩はいち早く子爵夫人が手にしたる四季袋を引っとり、打ち連れて歩みつつ
 「それは――何ですか、よほどお悪いので?」
 「はあ、とうとう肺になりましてね」
 「肺?――結核?」
 「は、ひどく喀血《かっけつ》をしましてね、それでつい先日逗子へまいりました。今日はちょっと見舞に」言いつつ千々岩が手より四季袋を受け取り「ではさようなら、すぐ帰ります、ち
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