め、土瓶《どびん》の大いなるを手にさげたり。出会いざまに、立ちどまりて、しばし一行の様子を見し女は、行き過ぎたる男のあと小走りに追いかけて、何かささやきつ。二人ともに振りかえりて、女は美しく染めたる歯を見せてほほえみしが、また相語りつつ花|茨《いばら》こぼるる畦路《あぜみち》に入り行きたり。
 浪子の目はそのあとを追いぬ。竹の子|笠《がさ》と白手ぬぐいは、次第に黄ばめる麦に沈みて、やがてかげも見えずなりしと思えば、たちまち畑《はた》のかなたより
 「郎《ぬし》は正宗《まさむね》、わしア錆《さ》び刀、郎《ぬし》は切れても、わしア切れエ――ぬ」
 歌う声哀々として野づらに散りぬ。
 浪子はさしうつむきつ。
 ふりかえり見し父中将は
 「くたびれたじゃろう。どれ――」
 言いつつ浪子の手をとりぬ。

    八の二

 中将は浪子の手をひきつつ
 「年のたつは早いもンじゃ。浪、卿《おまえ》はおぼえておるかい、卿《おまえ》がちっちゃかったころ、よくおとうさんに負ぶさって、ぽんぽんおとうさんが横腹をけったりしおったが。そうじゃ、卿《おまえ》が五つ六つのころじゃったの」
 「おほほほほ、さようでございましたよ。殿様が負《おん》ぶ遊ばしますと、少嬢様《ちいおじょうさま》がよくおむずかり遊ばしたンでございますね。――ただ今もどんなにおうらやましがっていらッしゃるかもわかりませんでございますよ」と気軽に幾が相槌《あいづち》うちぬ。
 浪子はたださびしげにほほえみつ。
 「駒《こま》か。駒にはおわびにどっさり土産《みやげ》でも持って[#底本では「持つて」と誤植]行くじゃ。なあ、浪。駒よか千鶴さんがうらやましがっとるじゃろう、一度こっちに来たがっておったのじゃから」
 「さようでございますよ。加藤《あちら》のお嬢様がおいで遊ばしたら、どんなにおにぎやかでございましょう。――本当に私《わたくし》なぞがまあこんな珍しい見物さしていただきまして――あの何でございますか、さっき渡りましたあの川が宇治川で、あの螢《ほたる》の名所で、ではあの駒沢《こまざわ》が深雪《みゆき》にあいました所でございますね」
 「はははは、幾はなかなか学者じゃの。――いや世の中の移り変わりはひどいもンじゃ。おとうさんなぞが若かった時分は、大阪《おおさか》から京へ上るというと、いつもあの三十石で、鮓《すし》のごと詰められた
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