》れぬ片岡家、さながら日よりも遠く、彼女《かれ》が伯母の家は呼べば応《こた》うる近くにありながら、何の顔ありて行きてその消息を問うべきぞ。想《おも》えば去年の五月艦隊の演習におもむく時、逗子に立ち寄りて別れを告げしが一生の別離《わかれ》とは知らざりき。かの時別荘の門に送り出《い》でて「早く帰ってちょうだい」と呼びし声は今も耳底《みみ》に残れど、今はたれに向かいて「今帰った」というべきぞ。
 かく思いつづけし武男は、一日《あるひ》横須賀におもむきしついでに逗子に下りて、かの別墅《べっしょ》の方に迷い行けば、表の門は閉じたり。さては帰京せしかと思いわびつつ、裏口より入り見れば、老爺《じじい》一人《ひとり》庭の草をむしり居《い》つ。

    七の二

 武男が入り来る足音に、老爺《じじい》はおもむろに振りかえりて、それと見るよりいささか驚きたる体《てい》にて、鉢巻《はちまき》をとり、小腰を屈《かが》めながら
 「これはおいでなせえまし。旦那様アいつお帰《けえ》りでごぜエましたんで?」
 「二三日前に帰った。老爺《おまえ》も相変わらず達者でいいな」
 「どういたしまして、はあ、ねッからいけませんで、はあお世話様になりますでごぜエますよ」
 「何かい、老爺《おまえ》はもうよっぽど長く留守をしとるのか?」
 「いいや、何でごぜエますよ、その、先月《あとげつ》までは奥様――ウンニャお嬢――ごご御病人様とばあやさんがおいでなさったんで、それからまア老爺《わたくし》がお留守をいたしておるでごぜエますよ」
 「それでは先月《あとげつ》帰京《かえ》ったンだね――では東京《あっち》にいるのだな」
 と武男はひとりごちぬ。
 「はい、さよさまで。殿様が清国《あっち》からお帰《けえ》りなさるその前《めえ》に、東京にお帰《けえ》りなさったでごぜエますよ。はア、それから殿様とごいっしょに京都《かみがた》に行かっしゃりました御様子で、まだ帰京《けえ》らっしゃりますめえと、はや思うでごぜエますよ」
 「京都《かみがた》に?――では病気がいいのだな」
 武男は再びひとりごちぬ。
 「で、いつ行ったのだね?」
 「四五日《しごんち》前――」と言いかけしが、老爺《じじい》はふと今の関係を思い出《い》でて、言い過ぎはせざりしかと思い貌《がお》にたちまち口をつぐみぬ。それと感ぜし武男は思わず顔をあからめたり。
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