に六七間の距離に迫りて、右手《めて》は上がり、短銃響き、細長なる一人はどうと倒れぬ。驚きて振りかえる他の一人を今一発、短銃の弾機をひかんとせる時、まっしぐらに馳《は》せつきたる武男は拳《こぶし》をあげて折れよと彼が右腕《うで》をたたきつ。短銃落ちぬ。驚き怒りてつかみかかれる彼を、武男は打ち倒さんと相撲《すま》う。かの濶大《かつだい》なる一人も走《は》せ来たりて武男に力を添えんとする時、短銃の音に驚かされしわが兵士ばらばらと走《は》せきたり、武男が手にあまるかの清人を直ちに蹴《け》倒して引っくくりぬ。瞬間の争いに汗になりたる武男が混雑の間より出《い》でける時、倒れし一人をたすけ起こせるかの濶大なる一人はこなたに向かい来たりぬ。
この時街燈の光はまさしく片岡中将の面《おもて》をば照らし出《いだ》しつ。
武男は思わず叫びぬ。
「やッ、閣下《あなた》は!」
「おッきみは!」
片岡中将はその副官といずくかへ行ける帰途《かえり》を、殊勝にも清人《しんじん》のねらえるなりき。
副官の疵《きず》は重かりしが、中将は微傷だも負わざりき。武男は図らずして乃舅《だいきゅう》を救えるなり。
*
この事いずれよりか伝わりて、浪子に達せし時、幾は限りなくよろこびて、
「ごらん遊ばせ。どうしても御縁が尽きぬのでございますよ。精出して御養生遊ばせ。ねエ、精出して養生いたしましょうねエ」
浪子はさびしく打ちほほえみぬ。
七の一
戦争のうちに、年は暮れ、かつ明けて、明治二十八年となりぬ。
一月より二月にかけて威海衛落ち、北洋艦隊|亡《ほろ》び、三月末には南の方《かた》澎湖《ぼうこ》列島すでにわが有に帰し、北の方《かた》にはわが大軍|潮《うしお》のごとく進みて、遼河《りょうが》以東に隻騎の敵を見ず。ついで講和使来たり、四月中旬には平和条約締結の報あまねく伝わり、三国干渉のうわさについで、遼東還付の事あり。同五月末大元帥陛下|凱旋《がいせん》したまいて、戦争はさながら大鵬《たいほう》の翼を収むるごとく※[#「※」は「條の左+灸」、第4水準2−1−57、202−6]然《しゅくぜん》としてやみぬ。
旅順に千々岩の骨を収め、片岡中将の危厄を救いし後、武男は威海衛の攻撃に従い、また遠く南の方《かた》澎湖島占領の事に従いしが、六月初旬その乗艦のひとまず横須賀に凱旋す
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