ま、あなた、思わずいったその声にふッと目がさめて、あたりを見るとだれもいません。行燈の火がとろとろ燃えて、悴はすやすや眠っています。もうすっかり汗になりまして、動悸《どうき》がはげしくうって――
その翌日から悴は急にわるくなりまして、とうとうその夕刻に息を引き取りましてね。もう夢のようになりましてその骸《からだ》を抱いているうちに、着いたのが良人が討死《うちじに》の電報《しらせ》でした」
話者は口をつぐみ、聴者は息をのみ、室内しんとして水のごとくなりぬ。
やや久しゅうして、老婦人は再び口を開けり。
「それから一切夢中でしてね、日と月と一時に沈《い》ったと申しましょうか、何と申しましょうか、それこそほんにまっ暗になりまして、辛抱に辛抱して結局《つまり》がこんな事かと思いますと、いっそこのままなおらずに――すぐそのあとで臥病《わずらい》ましたのですよ――と思ったのですが、幸《しあわせ》か不幸《ふしあわせ》か病気はだんだんよくなりましてね。
病気はよくなったのですが、もう私には世の中がすっかり空虚《から》になったようで、ただ生きておるというばかりでした。そうするうちに、知己《しるべ》の勧めでとにかく家をたたんでしばらくその宅にまいることになりましてね。病後ながらぶらぶら道具や何か取り細めていますと、いつでしたか箪笥《たんす》を明けますとね、亡くなりました悴の袷《あわせ》の下から書《ほん》が出てまいりましてね、ふと見ますと先年外国公使の夫人がくれましたその聖書でございますよ。読むでもなくつい見ていますと、ちょいとした文句が、こう妙に胸に響くような心地《こころもち》がしましてね――それはこの書《ほん》にも符号《しるし》をつけて置きましたが――それから知己《しるべ》の宅《うち》に越しましても、時々読んでいました。読んでいますうちに、山道に迷った者がどこかに鶏《とり》の声を聞くような、まっくらな晩にかすかな光がどこからかさすように思いましてね。もうその書《ほん》をくれた公使の夫人は帰国して、いなかったのですが、だれかに話を聞いて見たいと思っていますうちに、知己《しるべ》の世話でそのころできました女の学校の舎監になって見ますと、それが耶蘇《やそ》教主義の学校でして、その教師のなかにまだ若い御夫婦の方でしたが、それは熱心な方がありましてね、この御夫婦が私のまあ先達《せんだつ
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