れなりき。
この朝軍医が例のごとく来たり診して、傷のいよいよ全癒に向かうに満足を表して去りし後、一封の書は東京なる母より届きぬ。書中には田崎帰りていささか安堵《あんど》せるを書き、かついささか話したき事もあれば、医師の許可《ゆるし》次第ひとまず都合して帰京すべしと書きたり。話したき事! もしくは彼がもっとも忌みかつ恐るるある事にはあらざるか。武男は打ち案じぬ。
武男はついに帰京せざりき。
十一月初旬、彼とひとしく黄海に手負いし彼が乗艦松島の修繕終わりて戦地に向かいしと聞くほどもなく、わずかに医師の許容《ゆるし》を得たる武男は、請うて運送船に便乗し、あたかも大連湾を取って同湾《ここ》に碇泊《ていはく》せる艦隊に帰り去りぬ。
佐世保を出発する前日、武男は二通の書を投函《とうかん》せり。一はその母にあてて。
四の一
秋風吹き初《そ》めて、避暑の客は都に去り、病を養う客《ひと》ならでは留《とど》まる者なき九月|初旬《はじめ》より、今ここ十一月|初旬《はじめ》まで、日の温《あたた》かに風なき時をえらみて、五十あまりの婢《おんな》に伴なわれつつ、そぞろに逗子《ずし》の浜べを運動する一人《ひとり》の淑女ありき。
やせにやせて砂に落つ影も細々といたわしき姿を、網|曳《ひ》く漁夫、日ごと浜べを歩む病客も皆見るに慣れて、あうごとに頭《かしら》を下げぬ。たれつたうともなくほのかにその身の上をば聞き知れるなりけり。
こは浪子なりき。
惜しからぬ命つれなくもなお永《なが》らえて、また今年の秋風を見るに及べるなり。
*
浪子は去る六月の初め、伯母《おば》に連れられて帰京し、思いも掛けぬ宣告を伝え聞きしその翌日より、病は見る見る重り、前後を覚えぬまで胸を絞って心血の紅《くれない》なるを吐き、医は黙し、家族《やから》は眉《まゆ》をひそめ、自己《おのれ》は旦夕《たんせき》に死を待ちぬ。命は実に一縷《いちる》につながれしなりき。浪子は喜んで死を待ちぬ。死はなかなかうれしかりき。何思う間もなくたちまち深井《しんせい》の暗黒《くらき》におちたるこの身は、何の楽しみあり、何のかいありて、世に永《なが》らえんとはすべき。たれを恨み、たれを恋う、さる念は形をなす余裕《ひま》もなくて、ただ身をめぐる暗黒の恐ろしくいとわしく、早くこのうちを脱《のが》れんと思うのみ。死は
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