っかと腹部を巻けるもあり。黙して号令を待ち構えつ。この時わが先鋒隊は敵の右翼を乱射しつつすでに敵前を過ぎ終わらんとし、わが本隊の第一に進める松島は全速力をもって敵に近づきつつあり。双眼鏡をとってかなたを望めば、敵の中央を堅めし定遠鎮遠はまっ先にぬきんでて、横陣やや鈍角をなし、距離ようやく縮まりて二艦の形状《かたち》は遠目にも次第にあざやかになり来たりぬ。卒然として往年かの二艦を横浜の埠頭《ふとう》に見しことを思い出《い》でたる武男は、倍の好奇心もて打ち見やりつ。依然当時の二艦なり。ただ、今は黒煙をはき、白波《はくは》をけり、砲門を開きて、咄々《とつとつ》来たってわれに迫らんとするさまの、さながら悪獣なんどの来たり向こうごとく、恐るるとにはあらで一種やみ難き嫌厭《けんえん》を憎悪《ぞうお》の胸中にみなぎり出《い》づるを覚えしなり。
 たちまち海上はるかに一声の雷《らい》とどろき、物ありグーンと空中に鳴りをうって、松島の大檣《たいしょう》をかすめつつ、海に落ちて、二丈ばかり水をけ上げぬ。武男は後頂より脊髄《せきずい》を通じて言うべからざる冷気の走るを覚えしが、たちまち足を踏み固めぬ。他はいかにと見れば、砲尾に群がりし砲員の列一たびは揺らぎて、また動かず。艦いよいよ進んで、三個四個五個の敵弾つづけざまに乱れ飛び、一は左舷につりし端艇を打ち砕き、他はすべて松島の四辺に水柱をけ立てつ。
 「分隊長、まだですか」こらえ兼ねたる武男は叫びぬ。時まさに一時を過ぎんとす。「四千メートル」の語は、あまねく右舷及び艦の首尾に伝わりて、照尺整い、牽索《けんさく》握られつ。待ち構えたる一声のラッパ鳴りぬ。「打てッ!」の号令とともに、わが三十二サンチ巨砲を初め、右舷側砲一斉に第一弾を敵艦にほとばしらしつ。艦は震い、舷にそうて煙おびただしく渦まき起こりぬ。
 あたかもその答礼として、定遠鎮遠のいずれか放ちたる大弾丸すさまじく空にうなりて、煙突の上二寸ばかりかすめて海に落ちたり。砲員の二三は思わず頭《かしら》を下げぬ。
 分隊長顧みて「だれだ、だれだ、お辞儀をするのは?」
 武男を初め候補生も砲員もどっと笑いつ。
 「さあ、打てッ! しっかり、しっかり――打てッ!」
 右舷側砲は連《つる》べ放《う》ちにうち出しぬ。三十二サンチ巨砲も艦を震わして鳴りぬ。後続の諸艦も一斉にうち出しぬ。たちまち敵のうち
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