もお見舞い申さんと、堪忍袋《かんにんぶくろ》がたまらん」
 「それこそ袋のなかに入るも同然、帰路を絶たれたらどうです?」まじめに横槍《よこやり》を入るるは候補生の某なり。
 「何、帰路を絶つ? 望む所だ。しかし悲しいかな君の北洋艦隊はそれほど敏捷《びんしょう》にあらずだ。あえてけちをつけるわけじゃないが、今度も見参はちとおぼつかないね。支那人の気の長いには実に閉口する」
 おりから靴音の近づきて、たけ高き一少尉入り口に立ちたり。
 短小少尉はふり仰ぎ「おお航海士、どうだい、なんにも見えんか」
 「月ばかりだ。点検が済んだら、すべからく寝て鋭気を養うべしだ」言いつつ菓子皿に残れるカステーラの一片を頬《ほお》ばり「むむ、少し……甲板《かんぱん》に出ておると……腹が減るには驚く。――従卒《ボーイ》、菓子を持って来い」
 「君も随分食うね」と赤きシャツを着たる一少尉は微笑《ほほえ》みつ。
 「借問《しゃもん》す君はどうだ。菓子を食って老人組を罵倒《ばとう》するは、けだしわが輩|士官次室《ガンルーム》の英雄の特権じゃないか。――どうだい、諸君、兵はみんな明日《あす》を待ちわびて、目がさえて困るといってるぞ。これで失敗があったら実に兵の罪にあらず、――の罪だ」
 「わが輩は勇気については毫《ごう》も疑わん。望む所は沈勇、沈勇だ。無手法《むてっぽう》は困る」というはこの仲間にての年長なる甲板士官《メート》。
 「無手法といえば、○番分隊士は実に驚くよ」と他の一|人《にん》はことばをさしはさみぬ。「勉励も非常だが、第一いかに軍人は生命《いのち》を愛《お》しまんからッて、命の安売りはここですと看板もかけ兼ねん勢いはあまりだと思うね」
 「ああ、川島か、いつだッたか、そうそう、威海衛砲撃の時だッてあんな険呑《けんのん》な事をやったよ。川島を司令長官にしたら、それこそ三番分隊士《さんばん》じゃないが、艦隊を渤海湾に連れ込んで、太沽《ターク》どころじゃない、白河《ペイホー》をさかのぼって李《リー》のおやじを生けどるなんぞ言い出すかもしれん」
 「それに、ようすが以前《まえ》とはすっかり違ったね。非常に怒《おこ》るよ。いつだッたか僕が川島男爵夫人《バロネスかわしま》の事についてさ、少しからかいかけたら、まっ黒に怒って、あぶなく鉄拳《てっけん》を頂戴《ちょうだい》する所さ。僕は鎮遠の三十サンチ
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