上なる灰皿にさし置きつつ、腕を組みぬ。
 山木は踏み込めるぬかるみより手をとりて引き出されしように、ほっと息つきて、額上の汗をぬぐいつ。
 「さようでございます。実もって申し上げにくい事でございますが、その、どうかそこの所をあしからず――」
 「で、武男君はもう帰られたですな?」
 「いや、まだ帰りませんでございますが、もちろんこれは同人《ほんにん》承知の上の事でございまして、どうかあしからずその――」
 「よろしい」
 中将はうなずきつ。腕を組みて、しばし目を閉じぬ。思いのほかにたやすくはこびけるよ、とひそかに笑坪《えつぼ》に入りて目をあげたる山木は、目を閉じ口を結びてさながら睡《ねぶ》れるごとき中将の相貌《かお》を仰ぎて、さすがに一種の畏《おそ》れを覚えつ。
 「山木|君《さん》」
 中将は目をみひらきて、山木の顔をしげしげと打ちながめたり。
 「はッ」
 「山木|君《さん》、あなたは子を持っておいでかな」
 その問いの見当を定めかねたる山木はしきりに頭《かしら》を下げつつ「はッ。愚息《せがれ》が一人《ひとり》に――娘が一人でございまして、何分お引き立てを――」
 「山木|君《さん》、子というやつはかわい者《もの》じゃ」
 「はッ?」
 「いや、よろしい。承知しました。川島の御隠居にそういってください、浪は今日引き取るから、御安心なさい。――お使者《つかい》御苦労じゃった」
 使命を全うせしをよろこぶか、さすがに気の毒とわぶるにか、五つ六つ七八つ続けざまに小腰を屈《かが》めて、どぎまぎ立ち上がる山木を、主人中将は玄関まで送り出して、帰り入る書斎の戸をばはたと閉《さ》したり。

     九の一

 逗子の別荘にては、武男が出発後は、病める身の心細さやるせなく思うほどいよいよ長き日一日《ひまたひ》のさすがに暮らせば暮らされて、はや一月あまりたちたれば、麦刈り済みて山百合《やまゆり》咲くころとなりぬ。過ぐる日の喀血《かっけつ》に、一たびは気落ちしが、幸いにして医師《いしゃ》の言えるがごとくそのあとに著しき衰弱もなく、先日|函館《はこだて》よりの良人《おっと》の書信《てがみ》にも帰来《かえり》の近かるべきを知らせ来つれば、よし良人を驚かすほどにはいたらぬとも、喀血の前ほどにはなりおらではと、自ら気を励まし浪子は薬用に運動に細かに医師《いしゃ》の戒めを守りて摂生しつつ、
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