を握りて、魚と云はず、鳥と云はず片端より截《き》りては載せ、截りては載せ、こゝを先途《せんど》とまづ貯《たくは》へたまひけるが、何れの武官にやそゝくさ此方へ来らるゝ拍子《ひやうし》に清人の手にせし皿を斜《なゝめ》めにし、鳥飛んで空にあり、魚|床《ゆか》に躍り、折角の赤筋入りたるズボンをあたらだいなしにして呆然《ばうぜん》としたまひし此方には、件《くだん》の清人《しんじん》惜《を》しき事しつと云ひ顔に遽《あわ》てゝ床の上《うへ》なるものを匙《さじ》もてすくひて皿に復《かへ》されたるなど、其の国の気風|性癖《せいへき》も見えて面白かりき。
 食堂を出でゝ、再び舞踏室に入る。夜は漸く深けて興いよ/\深し。ワルスの調《しらべ》面白く、吾も内々《ない/\》靴のかゝとを上げ下げして、今にも踊り出さうになりぬ。忽ち場内のわあつと騒ぎ立ちて、撞《どう》と音《おと》するを見れば、斯は如何に紅色《くれなゐ》の洋装婦人と踊り狂へる六尺ゆたかの洋人の其の鼻|尤《もつと》も鳶《とび》に似たるが、床の滑かなるに足踏み辷らして、大山の頽《くづ》るゝ如く倒れしなりけり。洋装婦人の顔は着たる衣の其れよりも紅《くれなゐ》になりぬ。倒れし男はそこ/\に舞踏室を逃げ出したり。
 成程花は半開、興は八分、あまりに狂へば過《あやまち》に終る、最早夜も一時を過ぎて、宮家の方々も帰りたまひぬ。さき程よりストオヴの暖気、ヴアイオレツトの香《かほり》、嬌紅《けうこう》艶紫《えんし》の衣の色、指環《ゆびわ》腕環《うでわ》の金玉の光、美人(と云はむは偽《いつはり》なるべし、余は不幸にして唯一人も美人をば夜会の席に見る能はざりければ)の微笑、勲章大礼服の閃き、などに射られて少々|逆上《のぼせ》気味の、長座せばいよ/\のぼせて、木曾殿も都化《みやこくわ》して布衣《ほい》を誇る身の万一|人爵《じんしやく》崇拝と宗旨変《しゆうしかへ》でもしては大変、最早こゝらが切り上げ時と、先刻よりはなればなれになりし兄を尋ぬるに、これはずるい、いつかさつさとお帰りになつて居る。
 後《おく》れたり、と玄関に走せ出で、やつと車を見出して、急げ/\と車夫を急がし、卅分後に兄に窮屈千万なる「余が最初の燕尾服」を脱ぎぬ。



底本:「日本の名随筆 別巻75 紳士」作品社
   1997(平成9)年5月25日第1刷発行
底本の親本:「蘆花全集 第三巻
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