《ごぜん》は如何《どう》だ。如何に無能か性分か知らぬが、君の不活動も驚くじゃないか。朝から晩までさ、年が年中|其処《そこ》にぬうと立ちぽかァんと立って居て、而して一体お前は何をするんだい? 吾輩は決してその自ら誇るじゃないが、君の為に此顔を赧《あこ》うせざるを得ないね。おい、如何《どう》だ。樫君《かしくん》。言分《いいぶん》があるなら、聞こうじゃないか」
云い終って、口角沫《こうかくまつ》を飛ばす様に、水車は水沫《しぶき》を飛ばして、響も高々と軋々《ぎーいぎーい》と一廻り廻った。
其処に沈黙の五六秒がつゞいた。かさ/\かさ/\頭上に細い葉ずれの音がするかと思うと、其れは樫君が口を開いたのであった。
「然《そう》つけ/\云わるゝと、俺《わし》は穴《あな》へでも入りたいが、まあ聞いてくれ。そりゃ此処に斯うして毎日君の活動を見て居ると、羨《うらや》ましくもなるし、黙《だま》って立って居る俺は実以て済まぬと恥かしくもなるが、此れが性分だ、造り主の仕置だから詮方《しかた》は無い。それに君は俺が唯遊んで昼寝《ひるね》して暮らす様に云うたが、俺にも万更仕事が無いでもない。聞いてくれ。俺の頭《あたま》の上には青空がある。俺の頭は、日々《にちにち》夜々《やや》に此青空の方へ伸びて行く。俺の足の下には大地《だいち》がある。俺の爪先は、日々夜々に地心へと向うて入って行く。俺の周囲《ぐるり》には空気と空間とがある。俺は此周囲に向うて日々夜々に広がって行く。俺の仕事は此だ。此が俺の仕事だ。成長が仕事なのだ。俺の葉蔭で夏の日に水車小屋の人達が涼《すず》んだり昼寝をしたり、俺の根が君を動かす水の流れの岸をば崩れぬ様に固めたり、俺のドングリを小供が嬉々と拾うたり、其様な事は偶然の機縁で、仕事と云う俺の仕事ではない。俺は今一人だが、俺の友達も其処《そこ》此処《ここ》に居る。其一人は数年前に伐《き》られて、今は荷車《にぐるま》になって甲州街道を東京の下肥のせて歩いて居る。他の友達は、下駄《げた》の歯《は》になって、泥濘《どろ》の路石ころ路を歩いて居る。他の一人は鉋《かんな》の台になって、大工の手脂《てあぶら》に光って居る。他の友達は薪《まき》になって、とうに灰になった。ドブ板になったのもある。また木目が馬鹿に奇麗だと云って、茶室《ちゃしつ》の床柱《とこばしら》なンかになったのもある。根こぎにされて、都の邸《やしき》の眼かくしにされたのもある。お百姓衆の鍬《くわ》や鎌《かま》の柄《え》になったり、空気タイヤの人力車の楫棒《かじぼう》になったり、さま/″\の目に遭うてさま/″\の事をして居る。失礼ながら君の心棒も、俺の先代が身のなる果だと君は知らないか。俺は自分の運命を知らぬ。何れ如何《どう》にかなることであろう。唯其時が来るまでは、俺は黙って成長するばかりだ。君は折角眼ざましく活動し玉え。俺は黙って成長する」
云い終って、一寸|唾《つば》を吐《は》いたと思うと、其《それ》はドングリが一つ鼻先《はなさき》に落ちたのであった。夢見男は吾に復えった。而《そう》して唯いつもの通り廻る水車と、小春日に影も動かず眠った様な樫の木とを見た。
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農
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我父は農夫なり 約翰《ヨハネ》伝第十五章一節
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一
土の上に生れ、土の生《う》むものを食うて生き、而して死んで土になる。我儕《われら》は畢竟土の化物である。土の化物に一番適当した仕事は、土に働くことであらねばならぬ。あらゆる生活の方法の中、尤もよきものを択《えら》み得た者は農である。
二
農は神の直参《じきさん》である。自然の懐《ふところ》に、自然の支配の下に、自然を賛《たす》けて働く彼等は、人間化した自然である。神を地主とすれば、彼等は神の小作人である。主宰《しゅさい》を神とすれば、彼等は神の直轄《ちょくかつ》の下に住む天領《てんりょう》の民である。綱島梁川君の所謂「神と共に働き、神と共に楽む」事を文義通り実行する職業があるならば、其れは農であらねばならぬ。
三
農は人生生活のアルファにしてオメガである。
ナイル[#「ナイル」に二重傍線]、ユウフラテ[#「ユウフラテ」に二重傍線]の畔《ほとり》に、木片で土を掘って、野生の穀《こく》を蒔《ま》いて居た原始的農の代から、精巧な器械を用いて大仕掛にやる米国式大農の今日まで、世界は眼まぐろしい変遷を閲《けみ》した。然しながら土は依然として土である。歴史は青人草《あおひとぐさ》の上を唯風の如く吹き過ぎた。農の命《いのち》は土の命である。諸君は土を亡ぼすことは出来ない。幾多のナポレオン[#「ナポレオン」に傍線]、維廉《ヰルヘルム》、シシルローヅ[#「シシルローヅ」に傍線]をして勝手に其帝国を経営せしめよ。幾多のロスチャイルド[#「ロスチャイルド」に傍線]、モルガン[#「モルガン」に傍線]をして勝手に其|弗《ドル》法《フラン》を掻き集めしめよ。幾多のツェッペリン[#「ツェッペリン」に傍線]、ホルランド[#「ホルランド」に傍線]をして勝手に鳥の真似魚の真似をせしめよ、幾多のベルグソン[#「ベルグソン」に傍線]、メチニコフ[#「メチニコフ」に傍線]、ヘッケル[#「ヘッケル」に傍線]をして盛んに論議せしめ、幾多のショウ[#「ショウ」に傍線]、ハウプトマン[#「ハウプトマン」に傍線]をして随意に笑ったり泣いたりせしめ、幾多のガウガン[#「ガウガン」に傍線]、ロダン[#「ロダン」に傍線]をして盛に塗《ぬ》り且|刻《きざ》ましめよ。大多数の農は依然として、日出而作《ひいでてさくし》、日入而息《ひいってやすみ》、掘井而飲《いどをほってのみ》、耕田而食《たをたがやしてくら》うであろう。倫敦、巴里、伯林、紐育、東京は狐兎の窟《くつ》となり、世は終に近づく時も、サハラ[#「サハラ」に二重傍線]の沃野《よくや》にふり上ぐる農の鍬は、夕日に晃《きら》めくであろう。
四
大なる哉土の徳や。如何なる不浄《ふじょう》も容《い》れざるなく、如何なる罪人も養わざるは無い。如何なる低能の人間も、爾の懐に生活を見出すことが出来る。如何なる数奇《さくき》の将軍も、爾の懐に不平を葬ることが出来る。如何なる不遇の詩人も、爾の懐に憂を遣《や》ることが出来る。あらゆる放浪《ほうろう》を為尽《しつく》して行き処なき蕩児も、爾の懐に帰って安息を見出すことが出来る。
あわれなる工場の人よ。可哀想なる地底《ちてい》の坑夫よ。気の毒なる店頭の人、デスクの人よ。笑止なる台閣《だいかく》の人よ。羨む可き爾農夫よ。爾の家は仮令豕小屋に似たり共、爾の働く舞台は青天の下、大地の上である。爾の手足は松の膚《はだ》の如く荒るゝ共、爾の筋骨は鋼鉄を欺く。烈日《れつじつ》の下《もと》に滝なす汗を流す共、野の風はヨリ涼しく爾を吹く。爾は麦飯《むぎめし》を食うも、夜毎に快眠を与えられる。急がず休まず一鍬一鍬土を耕し、遽《あわ》てず恚《いか》らず一日一日其苗の長ずるを待つ。仮令思いがけない風、旱《ひでり》、水、雹《ひょう》、霜の天災を時に受くることがあっても、「エホバ与え、エホバ取り玉う」のである。土が残って居る。来年がある。昨日富豪となり明日《あす》乞丐《こじき》となる市井《しせい》の投機児《とうきじ》をして勝手に翻筋斗《とんぼ》をきらしめよ。彼愚なる官人をして学者をして随意に威張らしめよ。爾の頭は低くとも、爾の足は土について居る、爾の腰は丈夫である。
五
農程呑気らしく、のろまに見える者は無い。彼の顔は沢山の空間と時間を有って居る。彼の多くは帳簿を有たぬ。年末になって、残った足らぬと云うのである。彼の記憶は長く、与え主が忘れて了う頃になってのこ/\礼に来る。利を分秒《ふんびょう》に争い、其日々々に損得の勘定を為し、右の報を左に取る現金な都人から見れば、馬鹿らしくてたまらぬ。辰爺さんの曰く、「悧巧なやつは皆東京へ出ちゃって、馬鹿ばかり田舎に残って居るでさァ」と。遮莫《さもあれ》農をオロカと云うは、天網《てんもう》を疎《そ》と謂《い》い、月日をのろいと云い、大地を動かぬと謂う意味である。一秒時の十万分の一で一閃《いっせん》する電光を痛快と喜ぶは好い。然し開闢以来まだ光線の我儕《われら》に届かぬ星の存在を否《いな》むは僻事《ひがごと》である。所謂「神の愚は人よりも敏し」と云う語あるを忘れてはならぬ。
六
農と女は共通性を有って居る。彼美的百姓は曾て都の美しい娘達の学問する学校で、「女は土である」と演説して、娘達の大抗議的笑を博《はく》した事がある。然し乾《けん》を父と称し、坤《こん》を母と称す、Mother Earth なぞ云って、一切を包容し、忍受《にんじゅ》し、生育する土と女性の間には、深い意味の連絡がある。土と女の連絡は、土に働く土の精なる農と女の連絡である。
農の弱味は女の弱味である。女の強味は農の強味である。蹂躙《じゅうりん》される様で実は搭載し、常に負ける様で永久に勝って行く大なる土の性を彼等は共に具《そな》えて居る。
七
農程臆病なものは無い。農程無抵抗主義なものは無い。権力の前には彼等は頭が上がらない。「田家衣食無厚薄、不見県門身即楽」で、官衙に彼等はびく/\ものである。然し彼等の権力を敬するは、敬して実は遠ざかるのである。税もこぼしながら出す。徴兵にも、泣きながら出す。御上《おかみ》の沙汰としなれば、大抵の事は泣きの涙でも黙って通す。然し彼等が斯くするは、必しも御上に随喜《ずいき》の結果ではない。彼等が政府の命令に従うのは、彼等が強盗に金を出す様なものだ。此辺の豪農の家では、以前よく強盗に入られるので、二十円なり三十円なり強盗に奉納《ほうのう》の小金《こがね》を常に手近に出して置いたものだ。無益の争して怪我するよりも、と詮《あき》らめて然するのである。農は従順である。土の従順なるが如く従順である。土は無感覚の如く見える。土の如く鈍如《どんより》した農の顔を見れば、限りなく蹂躙《じゅうりん》してよいかの如く誰も思うであろう。然しながら其無感覚の如く見える土にも、恐ろしい地辷《じすべ》りあり、恐ろしい地震があり、深い心の底には燃ゆる火もあり、沸《わ》く水もあり、清《すず》しい命の水もあり、燃《も》せば力の黒金剛石の石炭もあり、無価の宝石も潜《ひそ》んで居ることを忘れてはならぬ。竹槍席旗は、昔から土に※[#「にんべん+牟」、第3水準1−14−22]《ひと》しい無抵抗主義の農が最後の手段であった。露西亜《ろしあ》の強味は、農の強味である。莫斯科《モスクワ》まで攻め入られて、初めて彼等の勇気は出て来る。農の怒は最後まで耐えられる。一たび発すれば、是れ地盤《じばん》の震動である。何ものか震動する大地の上に立てようぞ?
八
農家に附きものは不潔である。だらしのないが、農家の病である。然し欠点は常に裏から見た長所である。土と水とが一切の汚物を受け容《い》れなかったら、世界の汚物は何処へ往くであろうか。土が潔癖になったら、不潔は如何《どう》なることであろうか。土の土たるは、不潔を排斥して自己の潔を保つでなく、不潔を包容し浄化して生命の温床《おんしょう》たるにある。「吾父は農夫也」と耶蘇の道破した如く、神は正《まさ》しく一の大農夫である。神は一切を好《よし》と見る。「吾の造りたるものを不潔とするなかれ」是れ大農夫たる神の言葉である。自然の眼に不潔なし。而して農は尤も正しい自然主義に立つものである。
九
土なるかな。農なるかな。地に人の子の住まん限り、農は人の子にとって最も自然且つ尊貴な生活の方法で、且其救であらねばならぬ。
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蛇
一
虫類で、彼の嫌いなものは、蛇、蟷螂《かまきり》、蠑※[#「虫+原」、第3水準1−91−60]《いもり》、蛞蝓《なめくじ》、
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