たい位。つゞいて一方の足も入れると、一気に撞《どう》と尻餅《しりもち》搗《つ》く様に坐《す》わる。甕の縁《ふち》を越して、水がざあっと溢《あふ》れる。彼は悠然と甕の中に坐って、手拭を濡《ぬ》らして、頭から面《つら》、胸から手と、ゆる/\洗う。水はます/\溢れて流れる。乾いた庭に夕立のあとの如く水が流れる。油断をした蟻《あり》や螻《けら》が泡《あわ》を喰《く》って逃げる。逃げおくれて流される。彼は好い気もちになって、じいと眼をつぶる。眼を開《あ》いて徐に見廻わす。上には青天がある。下には大地がある。中には赤裸《あかはだか》の彼がある。見物人は、太陽と雀と虫と樹と草と花と家ばかりである。時々は褌の洗濯もする。而してそれを楓《かえで》の枝に曝《さ》らして置く。五分間で火熨斗《ひのし》をした様に奇麗に乾く。
十分十五分ばかりして、甕を出る。濡手拭《ぬれてぬぐい》を頭にのせたまゝ、四体は水の滴《た》るゝまゝに下駄をはいて、今母の胎内を出た様に真裸で、天上天下唯我独尊と云う様な大踏歩《だいとうほ》して庭を歩いて帰る。帰って縁に上って、手拭で悉皆体を拭いて、尚暫くは縁に真裸で立って居る。全く一皮《ひとかわ》脱《ぬ》いだ様で、己《わ》が体のあたりばかり涼しい気がそよぐ。縁から見ると、七分目に減《へ》った甕の水がまだ揺々《ゆらゆら》して居る。其れは夕蔭に、乾《かわ》き渇《かわ》いた鉢の草木にやるのである。稀には彼が出たあとで、妻児《さいじ》が入ることもある。青天白日、庭の真中で大びらに女が行水《ぎょうずい》するも、田舎住居のお蔭である。
夏は好い。夏が好い。
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低い丘の上から
一
彼は毎《つね》に武蔵野の住民と称して居る。然し実を云えば、彼が住むあたりは、武蔵野も場末《ばすえ》で、景が小さく、豪宕《ごうとう》な気象に乏しい。真の武蔵野を見るべく、彼の家から近くて一里強北に当って居る中央東線の鉄路を踏み切って更に北せねばならぬ。武蔵野に住んで武蔵野の豪宕|莽蒼《もうそう》の気を領《りょう》することが出来ず、且|居常《きょじょう》流水の音を耳にすることが出来ぬのが、彼の毎々繰り返えす遺憾である。然し縁なればこそ来て六年も住んだ土地だ。平凡は平凡ながら、平凡の趣味も万更捨てたものでもない。
彼の住居は、東京の西三里、玉川の東一里、甲州街道から十丁程南に入って、北多摩郡中では最も東京に近い千歳村字|粕谷《かすや》の南耕地《みなみこうち》と云って、昔は追剥《おいはぎ》が出たの、大蛇が出て婆《ばば》が腰をぬかしたのと伝説がある徳川の御林《おはやし》を、明治近くに拓《ひら》いたものである。林を拓いて出来た新開地だけに、いずれも古くて三十年二十年前|株《かぶ》を分けてもらった新家の部落で、粕谷中でも一番新しく、且人家が殊《こと》に疎《まばら》な方面である。就中《なかんずく》彼の家は此新部落の最南端に一つ飛び離れて、直ぐ東隣は墓地、生きた隣は背戸《せど》の方へ唯一軒、加之《しかも》小一丁からある。田圃《たんぼ》向うの丘の上を通る青山街道から見下ろす位の低い丘だが、此方から云えば丘の南端に彼の家はあって、東一帯は八幡の森、雑木林、墓地の木立に塞《ふさ》がれて見えぬが、南と西とは展望に障るものなく、小さなパノラマの様な景色が四時朝夕眺められる。
二
三鷹村《みたかむら》の方から千歳村を経《へ》て世田ヶ谷の方に流るゝ大田圃の一の小さな枝《えだ》が、入江《いりえ》の如く彼が家の下を東から西へ入り込んで居る。其西の行きどまりは築《つ》き上げた品川堀の堤《つつみ》の藪《やぶ》だたみになって、其上から遠村近落の樫《かし》の森や松原を根占《ねじめ》にして、高尾小仏から甲斐東部の連山が隠見出没して居る。冬は白く、春は夢の様に淡《あわ》く、秋の夕《ゆうべ》は紫に、夏の夕立後はまさまさと青く近寄って来る山々である。近景の大きな二本松が此山の鏈《くさり》を突破《とっぱ》して居る。
此山の鏈を伝うて南東へ行けば、富士を冠《かん》した相州連山の御国山《みくにやま》から南端の鋭い頭をした大山まで唯一目に見られる筈だが、此辺で所謂富士南に豪農の防風林《ぼうふうりん》の高い杉の森があって、正に富士を隠して居る。少し杉を伐ったので、冬は白いものが人を焦《じ》らす様にちら/\透《す》いて見えるのが、却て懊悩《おうのう》の種になった。あの杉の森がなかったら、と彼は幾度思うたかも知れぬ。然し此頃では唯其杉の伐られんことを是れ恐るゝ様になった。下枝《したえだ》を払った百尺もある杉の八九十本、欝然《うつぜん》として風景を締めて居る。斯杉の森がなかったら、富士は見えても、如何に浅薄の景色になってしまったであろう。春雨《はるさめ》の明けの朝、秋霧《あきぎり》の夕、此杉の森の梢《こずえ》がミレージの様に靄《もや》から浮いて出たり、棚引く煙を紗《しゃ》の帯の如く纏《まと》うて見たり、しぶく小雨に見る/\淡墨《うすずみ》の画になったり、梅雨には梟《ふくろう》の宿、晴れた夏には真先に蜩《ひぐらし》の家になったり、雪霽《ゆきばれ》には青空に劃然《くっきり》と聳《そび》ゆる玉樹の高い梢に百点千点黒い鴉《からす》をとまらして見たり、秋の入日の空《そら》樺色に※[#「日+熏」、第3水準1−85−42]《くん》ずる夕は、濃紺《のうこん》濃紫《のうし》の神秘な色を湛《たた》えて梢を距《さ》る五尺の空に唯一つ明星を煌《きら》めかしたり、彼の杉の森は彼に尽きざる趣味を与えてくれる。
三
彼の家の下なる浅い横長の谷は、畑が重《おも》で、田は少しであるが、此入江から本田圃に出ると、長江の流るゝ様に田が田に連なって居る。まだ北風の寒い頃、子を負った跣足《はだし》の女の子が、小目籠《めかい》と庖刀を持って、芹《せり》、嫁菜《よめな》、薺《なずな》、野蒜《のびる》、蓬《よもぎ》、蒲公英《たんぽぽ》なぞ摘みに来る。紫雲英《れんげそう》が咲く。蛙が鳴く。膝まで泥になって、巳之吉亥之作が田螺拾《たにしひろ》いに来る。簑笠《みのかさ》の田植は骨でも、見るには画である。螢には赤い火が夏の夜にちら/\するのは、子供が鰌突《どじょうつ》きして居るのである。一条の小川が品川堀の下を横に潜《くぐ》って、彼の家の下の谷を其南側に添うて東へ大田圃の方へと流れて居る。最初は女竹《めだけ》の藪の中を流れ、それから稀に葭《よし》を交えた萱《かや》の茂る土堤《どて》の中を流れる。夏は青々として眼がさめる。葭切《よしきり》、水鶏《くいな》の棲家《すみか》になる。螢が此処からふらりと出て来て、田面に乱れ、墓地を飛んでは人魂《ひとだま》を真似て、時々は彼が家の蚊帳《かや》の天井まで舞い込む。夏は翡翠《ひすい》の屏風《びょうぶ》に光琳《こうりん》の筆で描いた様に、青萱《あおかや》まじりに萱草《かんぞう》の赭《あか》い花が咲く。萱、葭の穂が薄紫に出ると、秋は此小川の堤《つつみ》に立つ。それから日に/\秋風《あきかぜ》をこゝに見せて、其薄紫の穂が白く、青々とした其葉が黄ばみ、更に白らむ頃は、漬菜《つけな》を洗う七ちゃんが舌鼓《したつづみ》うつ程、小川の水は浅くなる。行く/\年《とし》闌《た》けて武蔵野の冬深く、枯るゝものは枯れ、枯れたものは乾き、風なき日には光り、風ある日にはがさ/\と人が来るかの様に響《ひび》く。其内ある日近所の辰さん兼さんが※[#「竹/(束+欠)」、上巻−195−4]々《さくさく》※[#「「竹/(束+欠)」、上巻−195−4]々と音さして悉皆堤の上のを苅《か》って、束《たば》にして、持って往って了《しま》う。あとは苅り残されの枯尾花《かれおばな》や枯葭《かれよし》の二三本、野茨《のばら》の紅い実まじりに淋《さび》しく残って居る。覗《のぞ》いて見ると、小川の水は何処へ潜《くぐ》ったのか、窪《くぼ》い水道だけ乾いたまゝに残される。
四
谷の向う正面は、雑木林、小杉林、畑などの入り乱れた北向きの傾斜である。此頃は其筋の取締も厳重《げんじゅう》になったが、彼が引越して来た当座は、まだ賭博《とばく》が流行して、寒い夜向うの雑木林に不思議の火を見ることもあった。其火を見ぬ様になったはよいが、真正面《ましょうめん》に彼が七本松と名づけて愛《め》でゝ居た赤松が、大分伐られたのは、惜しかった。此等の傾斜を南に上りつめた丘《おか》の頂《いただき》は、隣字の廻沢《めぐりさわ》である。雑木林に家がホノ見え、杉の森に寺が隠れ、此程並木の櫟《くぬぎ》を伐ったので、畑の一部も街道も見える。彼が粕谷《かすや》に住んだ六年の間に、目通りに木羽葺《こっぱぶき》が一軒、麦藁葺《むぎわらぶき》が一軒出来た。最初はけば/\しい新屋根が気障《きざ》に見えたが、数年の風日は一を燻《くす》んだ紫に、一を淡褐色《たんかっしょく》にして、あたりの景色としっくり調和して見せた。此《この》丘《おか》を甲州街道の滝阪《たきざか》から分岐《ぶんき》して青山へ行く青山街道が西から東へと這《は》って居る。青山に出るまでには大きな阪の二つもあるので、甲州街道の十分の一も往来は無いが、街道は街道である。肥車《こやしぐるま》が通う。馬士《まご》が歌うて荷馬車を牽《ひ》いて通る。自転車が鈴を鳴《な》らして行く。稀に玉川行の自動車が通る。年に幾回か人力車が通る。道は面白い。座《すわ》って居て行路の人を眺《なが》むるのは、断片《だんぺん》の芝居を見る様に面白い。時々は緑《みどり》の油箪《ゆたん》や振りの紅《くれない》を遠目に見せて嫁入りが通る。附近に寺があるので、時々は哀しい南無阿弥陀《なむあみだ》ァ仏《ぶつ》の音頭念仏に導かれて葬式が通る。
街道は此丘を東に下りて、田圃を横ぎり、また丘に上って、東へ都《みやこ》へと這って行く。田圃をはさむ南北の丘が隣字の船橋《ふなばし》で、幅四丁程の此田圃は長く世田ヶ谷の方へつゞいて居る。田圃の遙《はるか》東に、いつも煙が幾筋か立って居る。一番南が目黒の火薬製造所の煙で、次が渋谷の発電所、次ぎが大橋発電所の煙である。一度東京から逗留《とうりゅう》に来た幼《おさ》ない姪《めい》が、二三日すると懐家病《ホームシック》に罹って、何時《いつ》も庭の端に出ては右の煙を眺めて居た。五月雨《さみだれ》で田圃が白くなり、雲霧《くもきり》で遠望が煙にぼかさるゝ頃は、田圃の北から南へ出る岬《みさき》と、南から北へと差出る※[#「山+鼻」、第4水準2−8−70]《はな》とが、宛《さ》ながら入江を囲《かこ》む崎の如く末は海かと疑われる。廻沢《めぐりさわ》と云い、船橋と云い、地形から考えても、昔は此田圃は海か湖《みずうみ》かであったろうと思われる。
五
谷から向うの丘《おか》にかけて、麦と稲とが彼の為に一年両度緑になり黄になってくれる。雑木林が、若葉と、青葉と、秋葉と、三度の栄《さかえ》を見せる。常見てはありとも見えぬ辺《あたり》に、春来れば李《すもも》や梅が白く、桃が紅く、夏来れば栗の花が黄白く、秋は其処此処に柿紅葉、白膠木《ぬるで》紅葉《もみじ》、山紅葉が眼ざましく栄《は》える。雪も好い。月も好い。真暗い五月闇《さつきやみ》に草舎《くさや》の紅い火を見るも好い。雨も好い。春陰《しゅんいん》も好い。秋晴も好い。降《ふ》る様な星の夜も好い。西の方甲州境の山から起って、玉川を渡り、彼が住む村を過ぎて東京の方へ去る夕立を目迎《まむか》えて見送るに好い。向うの村の梢《こずえ》に先ず訪《おと》ずれて、丘の櫟林、谷の尾花が末、さては己が庭の松と、次第に吹いて来る秋風を指点《してん》するに好い。翳《かげ》ったり、照ったり、躁《さわ》いだり、黙《だま》ったり、雲と日と風の丘と谷とに戯るゝ鬼子っこを見るにも好い。白鯉《しろこい》の鱗《うろこ》を以て包んだり、蜘蛛《くも》の糸を以て織りなした縮羅《しじら》の巾《きぬ》を引きはえたり、波なき海を縁《ふち》どる夥《おびただ》しい砂浜を作ったり、地上の花
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