じ》の木綿羽織だった。「乗れませんでしたか」「満員だった」「今車を呼んで来ます」「何、構わん、構わん」と翁が手を掉《ふ》る。然し翁の足つきは両三年前よりは余程弱って見えた。四五丁走って、懇意《こんい》の車屋を頼み、翁のあとを追いかけさせた。
翁は斗満に帰ってから、実桜《チェリー》の苗《なえ》二本送って呉れた。其夏久しく気にかけて居た余作君の結婚が済《す》んだ事を報じてよこした。其秋の九月二十六日は雨だった。一周年前彼等が斗満に着いた其|翌日《よくじつ》も雨だった。彼はこんな出たらめを翁に書き送った。
[#ここから3字下げ]
去年《こぞ》の今日《けふ》も斯《か》くは降《ふ》りきと秋《あき》の雨
眺めて独君をしぞおもふ
[#ここで字下げ終わり]
程なく翁から其|雑著《ざっちょ》出版《しゅっぱん》の事を依頼して来た。此春翁と前後して北へ帰った雁《かり》がまた武蔵野の空に来《き》鳴《な》く時となった。然し春の別れの宣言の如く、翁は再び斗満を出なかった。秋から冬にかけて、翁は心身の病に衰弱甚しく、已に覚期《かくご》をした様であったが、年と共に玉《たま》の緒《お》新《あらた》に元気づき
前へ
次へ
全684ページ中415ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳冨 蘆花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング