んかたいへい》、国土安穏《こくどあんのん》、五穀成就《ごこくじょうじゅ》、息災延命《そくさいえんめい》を朝々祈るのである。彼女は村の生れでなく、噂《うわさ》によればさる士《さむらい》の芸妓《げいしゃ》に生ませた女らしい。其信心は何時から始まったか知らぬが、其夫が激烈《げきれつ》な脚気《かっけ》にかゝって已に衝心《しょうしん》した時、彼女は身命《しんめい》を擲《なげう》って祈ったれば、神のお告に九年|余命《よめい》を授《さず》くるとあった。果然《はたして》夫の病気は畳《たたみ》の目一つずつ漸々快方に向って、九年の後死んだ。顔の蒼白い、頬骨《ほおぼね》の高い、眼の凄《すご》い、義太夫語りの様な錆声《さびごえ》をした婆さんである。「折目高《おりめだか》なる武家《ぶけ》挨拶《あいさつ》」と云う様な切口上で挨拶をするのが癖である。今日も朝方《あさがた》蓄音器招待の礼《れい》に、季節には珍らしい筍《たけのこ》二本持て来てくれた。
琴婆さんは蓄音器の返礼《へんれい》にと云って、文句《もんく》は自作の寿《ことぶき》を唄うて居る。
「福富サンが、皆を集めて遊ばせて下さるゥ……(如何《どう》も声が出ないものですから、エヘン、エヘン――ウーイ、ウーイ、ウーイ)……御親切な福富さんの(ウーイ、ウーイ)ます/\御繁昌《ごはんじょう》で(ウーイ、ウーイ)表《おもて》の方から千両箱、右の方から宝船《たからぶね》(ウーイ、ウーイ)……
障子の外に立聞く主人は、冷汗が流れた。彼は窃《そっ》とぬき足して母屋に帰った。唄《うた》はまだつゞいて、(ウーイ、ウーイ)が Refrain の様に響いて来る。
[#地から3字上げ](明治四十五年 二月六日)
[#改ページ]
春七日
(一)雛節句
三月三日。別に買った雛も無いから、細君が鶴子を相手に紙雛を折ったり、色紙《いろがみ》の鶴、香箱《こうばこ》、三方《さんぼう》、四方《しほう》を折ったり、あらん限りの可愛いものを集めて、雛壇《ひなだん》を飾《かざ》った。
草餅《くさもち》が出来た。蓬《よもぎ》は昨日鶴子が夏やと田圃《たんぼ》に往って摘《つ》んだのである。東京の草餅は、染料《せんりょう》を使うから、色は美しいが、肝腎《かんじん》の香が薄《うす》い。
今朝は非常の霜だった。午《ひる》の前後はまた無闇《むやみ》と暖《あたたか》で、急に梅が咲き、雪柳《ゆきやなぎ》が青く芽をふいた。山茱萸《さんしい》は黄色の花ざかり。赤い蕾《つぼみ》の沈丁花《ちんちょうげ》も一つ白い口を切《き》った。春蘭《しゅんらん》、水仙《すいせん》の蕾が出て来た。
雲雀《ひばり》が頻《しきり》に鳴く。麦畑《むぎばた》に陽炎《かげろう》が立つ。
唖の巳代吉が裸馬《はだかうま》に乗って来た。女子供がキャッ/\騒《さわ》ぎながら麦畑の向うを通る。若い者が大勢《おおぜい》大師様の参詣《さんけい》に出かける。
春だ。
恋猫《こいねこ》、恋犬《こいいぬ》、鶏《にわとり》は出しても/\巣《す》につき、雀《すずめ》は夫婦で無暗《むやみ》に人の家《うち》の家根《やね》に穴をつくり、木々は芽を吐き、花をさかす。犬のピンの腹《はら》ははりきれそうである。
夜は松の心芽《しんめ》程《ほど》の小さな蝋燭《ろうそく》をともして、雛壇が美《うつく》しかった。
(二)春雨
三月六日。
尽日《じんじつ》雨、山陽《さんよう》の所謂《いわゆる》「春雨《はるさめ》さびしく候」と云う日。
書窓《しょそう》から眺めると、灰色《はいいろ》をした小雨《こさめ》が、噴霧器《ふんむき》で噴《ふ》く様に、弗《ふっ》――弗《ふっ》と北から中《なか》ッ原《ぱら》の杉の森を掠《かす》めて斜《はす》に幾《いく》しきりもしぶいて通る。
つく/″\見て居る内に、英国の発狂《はっきょう》詩人《しじん》ワットソン[#「ワットソン」に傍線]の God comes down in the rain 神は雨にて降《くだ》り玉う、と云う句を不図《ふと》憶《おも》い出した。其れは「田舎《いなか》の信心《しんじん》」と云う短詩の一句である。全詩《ぜんし》は忘れたが、右の句と、「此処《ここ》田舎の村にては、神を信頼《しんらい》の一念今も尚存し」と云う句と、結句の「此れぞ田舎の信心なる、此れに越すものあらめやも」と云う句を覚えて居る。
農村《のうそん》に天道様《てんとうさま》の信心が無くなったら、農村の破滅《はめつ》である。然るに此信心は日に/\消亡《しょうもう》して、人智人巧唯我唯利の風が日々農村人心の分解《ぶんかい》を促《うなが》しつゝあるのだ。少しでも農村の実情を見知る者は、前途を懸念《けねん》せずには居られぬ。
(三)雨後
三月七日。
前へ
次へ
全171ページ中115ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳冨 蘆花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング