君の名は久しく耳にして居た。其「見神の実験」及び病間録に収められた他の諸名篇を、彼は雑誌新人の紙上に愛読し、教えらるゝことが多かった。木下尚江君がある日粕谷に遊びに来た時、梁川君の事を話し、「一度逢って御覧なさい、あの病体に恐入った元気」と云うた。丁度四月十六日には、救世軍のブース大将歓迎会が東京座に開かるゝ筈で、彼も案内をうけて居たので、出京のついでに梁川君を訪うことにしたのであった。
肺患者には無惨な埃《ほこり》まじりの風が散り残りの桜の花を意地わるく吹きちぎる日の午後、彼は大久保余丁町の綱島家の格子戸《こうしど》をくゞった。梁川先生発熱の虞あり、来訪諸君は長談を用捨されたく云々、と主治医の書いた張札《はりふだ》が格子戸に貼《は》ってある。食事中との事で、しばらく薄暗い一室に待たされた。「自彊不息」と主人の嘱《しょく》によって清人か鮮人かの書いた額が掛って居た。やがて案内されて、硝子戸になって居る縁側《えんがわ》伝いに奥まった一室に入った。古い段通を敷いた六畳程の部屋、下を硝子戸の本棚にして金字の書巻のギッシリ詰まった押入を背にして、蒲団の上に座って居る浅黒い人が、丁寧に頭を下げて、吸い込む様なカスレ声で初対面の挨拶をした。処女の様なつゝましさがある。たゞ其の人を見る黒い眸子《ひとみ》の澄んで凝然と動かぬ処に、意志の強い其性格が閃めく様に思われた。最初其カスレた声を聞き苦しく思い、斯人に談話を強うるの不躾《ぶしつけ》を気にして居た彼は、何時の間にかつり込まれて、悠々と話込んだ。話半に家の人が来客を報ぜられた。綱島君は名刺を見て、「あゝ丁度よい処だった。御紹介しようと思って居ました」と云う。やがて労働者の風をした人が一青年を連れて入って来た。梁川君は、西田市太郎君と云うて紹介し、「実地の経験には、西田さんに学ぶ所が多い」と附け加えた。話は種々に渉った。彼は聖書に顕れた耶蘇基督について不満と思う所は、と梁川君に問うた。例《れい》せば実《み》なき無花果を咀《のろ》った様な、と彼は言を添えた。梁川君は「僕も丁度今其事を思うて居たが、不満と云う訳ではないが、耶蘇の一特色は其イラヒドイ所謂《いわゆる》 Vehement な点にある」と答えた。話は菜食の事に移って、彼は旅順閉塞に行く或船で、最後訣別の盃を挙ぐるに、生かして持って来た鶏を料理しようとしたが、誰云い出すともなく、鶏は生かして置こうじゃァないかと、到頭其まゝにして置いた、と云う逸話を話した。梁川君は首を傾《かし》げて聴いて居たが、「面白いな」と独語した。一座の話は多端に渉ったが、要するに随感随話で、まとまった事もなかった。唯愉快に話し込んで思わず時を移し、二時間あまりにして西田君列と前後に席を立った。
其れから其足で三崎町の東京座に往って、舞台裏《ぶたいうら》で諸君のあとから彼もブース[#「ブース」に傍線]大将の手を握るの愉快を獲た。大将は肉体も見上ぐるばかりの清げな大男で、其手は昨年の夏握ったトルストイ[#「トルストイ」に傍線]の手の様に大きく温《あたたか》であった。午後には梁川君と語り、夜はブース[#「ブース」に傍線]大将の手を握る。四月十六日は彼にとって喜ばしい一日であった。嬉しいあまりに、大将の演説終って喜捨金集めの帽が廻った時、彼は思わず乏しい財布を倒《さかさ》にして了うた。
其後梁川君とははがきの往復をしたり、回光録を贈ってもらったりしたきり、彼も田園の生活多忙になって久しく打絶えて居た。そこで此訃は突然であった。精神的に不朽な人は、肉体も例令其れが病体であっても猶不死の様に思われてならなかったのである。梁川君が死ぬ、其様《そん》な事はあまり彼の考には入って居なかった。一枚の黒枠《くろわく》のはがきは警策の如く彼が頭上に落ちた。「死ぬぞ」と其はがきは彼の耳もとに叫んだ。
*
梁川君の葬式は、秋雨の瀟々《しとしと》と降る日であった。彼は高足駄をはいて、粕谷から本郷教会に往った。教会は一ぱいであった。やがて棺が舁き込まれた。草鞋ばきの西田君の姿も見えた。某嬢の独唱も、先輩及友人諸氏の履歴弔詞の朗読も、真摯なものであった。牧師が説教した。「美人の裸体《らたい》は好い、然しこれに彩衣《さいい》を被《き》せると尚美しい。梁川は永遠の真理を趣味滴る如き文章に述べた」などの語があった。梁川、梁川がやゝ耳障《みみざわ》りであった。
彼は棺の後に跟《つ》いて雑司ヶ谷の墓地に往った。葬式が終ると、何時の間にか車にのせられて綱島家に往った。梁川君に親しい人が集って居て、晩餐の饗があった。西田君、小田君、中桐君、水谷君等面識の人もあり、識らない方も多かった。
新宿で電車を下りた。夜が深けて居る。雨は止んだが、路は田圃《たんぼ》の様だ。彼は提灯《ちょう
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