泡《しらあわ》を吐いて、一時は如何《どう》なる事かと危ぶんだ。此様な記憶があるので、デカは蛇を恐るゝのであろう。多くの猫は蛇を捕る。彼が家のトラはよく寝鳥《ねとり》を捕《と》ってはむしゃ/\喰うが、蛇をまだ一度もとらぬ。ある時、トラが何ものかと相対《あいたい》し貌《がお》に、芝生に座《すわ》って居るので、覗《のぞ》いて見たら、トグロを巻いた地もぐりが頭をちゞめて寄らば撃《う》たんと眼を怒らして居る。トラが居ずまいを直すたびに、蛇は其頭をトラの方へ向け直す。トラは相関せざるものゝ様に、キチンと前足を揃《そろ》えて、何か他の事を案じ顔である。彼が打殺す可く竿《さお》をとりに往った間に、トラも蛇も物別《ものわか》れになって何処かへ往ってしもうた。
四
斯く蛇に近くなっても、まだ嫌悪の情は除《と》れぬ。百花の園にも、一疋の蛇が居れば、最早《もう》園其ものが嫌になる。ある時、書斎の縁の柱の下に、一疋の蛇がにょろ/\頭を擡《もた》げて、上ろうか、と思う様子をして居た。遽《あわ》てゝ蛇打捧を取りに往った間に、蛇が見えなくなった。びく/\もので、戸袋の中や、室内のデスクの下、ソファの下、はては額《がく》の裏まで探がした。居ない。居ないが、何処かに隠れて居る様で、安心が出来ぬ。枕を高くして昼寝《ひるね》も出来ぬ。其日一日は終に不安の中に暮らした。蛇を見ると、彼が生活の愉快がすうと泡《あわ》の様に消える。彼は何より菓物が好きで、南洋に住みたいが、唯蛇が多いので其気にもなれぬ。ボア、パイゾンの長大なものでなく、食匙蛇《はぶ》、響尾蛇《ラッツルスネーキ》、蝮蛇《まむし》の毒あるでもなく、小さい、無害な、臆病な、人を見れば直ぐ逃げる、二つ三つ打てば直ぐ死ぬ、眼の敵《かたき》に殺さるゝ云わば気の毒な蛇までも、何故《なぜ》斯様《こんな》に彼は恐れ嫌がるのであろう? 田舎の人達は、子供に到るまで、あまり蛇を恐れぬ。卵でも呑みに来たり、余程わるさをしなければ滅多に殺さぬ。自然に生活する自然の人なる農の仕方は、おのずから深い智慧《ちえ》に適《かな》う事が多い。
奥州の方では、昔蛇が居ない為に、夥しい鼠に山林の木芽《このめ》を食われ、わざ/\蛇を取寄せて山野に放ったこともあるそうだ。食うものが無くて、蛇を食う処さえある。好きとあっては、ポッケットに入れてあるく人さえある。
悪戯《いたずら》に蛇を投げかけようとした者を已に打果《うちはた》すとて刀《かたな》の柄に手をかけた程蛇嫌いの士が、後法師になって、蛇の巣《す》と云わるゝ竹生島《ちくふじま》に庵《いおり》を結び、蛇の中で修行した話は、西鶴《さいかく》の物語で読んだ。東京の某耶蘇教会で賢婦人の名があった某女史は、眼が悪い時落ちた襷《たすき》と間違《まちが》えて何より嫌いな蛇を握《にぎ》り、其れから信仰に進んだと伝えられる。糞尿《ふんにょう》にも道あり、蛇も菩提《ぼだい》に導く善智識であらねばならぬ。
「世の中に這入《はいり》かねてや蛇の穴」とは古人の句。醜《みにく》い姿忌み嫌わるゝ悲しさに、大びらに明るい世には出られず、常に人目を避けて陰地《いんち》にのたくり、弱きを窘《いじ》めて冷たく、執念深く、笑うこともなく世を過す蛇を思えば、彼は蛇を嫌う権理がないばかりではなく、蛇は恐らく虫に化《な》って居る彼自身ではあるまいか。己《わ》が醜《みに》くさを見せらるゝ為に、彼は蛇を忌み嫌い而して恐るゝのであるまいか。
生命は共通である。生存は相殺《そうさつ》である。自然は偏倚《へんい》を容《ゆる》さぬ。愛憎《あいぞう》は我等が宇宙に縋《すが》る二本の手である。好悪は人生を歩む左右の脚である。
好きなものが毒になり、嫌いなものが薬《くすり》になる。好きなものを食うて、嫌いなものに食われる。宇宙の生命《いのち》は斯くして有《たも》たるゝのである。
好きなものを好くは本能である。嫌いなものを好くに我儕《われら》の理想がある。
「天の父の全きが如く全くす可し」
本能から出発して、我等は個々理想に向わねばならぬ。
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露の祈
今朝庭を歩いて居ると、眼が一隅《いちぐう》に走る瞬間、はッとして彼は立とまった。枯萩《かれはぎ》の枝にものが光る。玉だ! 誰が何時《いつ》撒《ま》いたのか、此枝にも、彼枝にも、紅玉、黄玉、紫玉、緑玉、碧玉の数々、きらり、きらりと光って居る。何と云う美しい玉であろう! 嗟嘆《さたん》してやゝしばし見とれた。近寄って一の枝に触《さわ》ると、ほろりと消えた。何だ、露か。そうだ、やはりいつもの露であった。露、露、いつもの露を玉にした魔術師は何処に居る? 彼はふりかえって、東の空に杲々《こうこう》と輝く朝日を見た。
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あゝ朝日!
爾《なんじ》の
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