エホバ取り玉う」のである。土が残って居る。来年がある。昨日富豪となり明日《あす》乞丐《こじき》となる市井《しせい》の投機児《とうきじ》をして勝手に翻筋斗《とんぼ》をきらしめよ。彼愚なる官人をして学者をして随意に威張らしめよ。爾の頭は低くとも、爾の足は土について居る、爾の腰は丈夫である。

       五

 農程呑気らしく、のろまに見える者は無い。彼の顔は沢山の空間と時間を有って居る。彼の多くは帳簿を有たぬ。年末になって、残った足らぬと云うのである。彼の記憶は長く、与え主が忘れて了う頃になってのこ/\礼に来る。利を分秒《ふんびょう》に争い、其日々々に損得の勘定を為し、右の報を左に取る現金な都人から見れば、馬鹿らしくてたまらぬ。辰爺さんの曰く、「悧巧なやつは皆東京へ出ちゃって、馬鹿ばかり田舎に残って居るでさァ」と。遮莫《さもあれ》農をオロカと云うは、天網《てんもう》を疎《そ》と謂《い》い、月日をのろいと云い、大地を動かぬと謂う意味である。一秒時の十万分の一で一閃《いっせん》する電光を痛快と喜ぶは好い。然し開闢以来まだ光線の我儕《われら》に届かぬ星の存在を否《いな》むは僻事《ひがごと》である。所謂「神の愚は人よりも敏し」と云う語あるを忘れてはならぬ。

       六

 農と女は共通性を有って居る。彼美的百姓は曾て都の美しい娘達の学問する学校で、「女は土である」と演説して、娘達の大抗議的笑を博《はく》した事がある。然し乾《けん》を父と称し、坤《こん》を母と称す、Mother Earth なぞ云って、一切を包容し、忍受《にんじゅ》し、生育する土と女性の間には、深い意味の連絡がある。土と女の連絡は、土に働く土の精なる農と女の連絡である。
 農の弱味は女の弱味である。女の強味は農の強味である。蹂躙《じゅうりん》される様で実は搭載し、常に負ける様で永久に勝って行く大なる土の性を彼等は共に具《そな》えて居る。

       七

 農程臆病なものは無い。農程無抵抗主義なものは無い。権力の前には彼等は頭が上がらない。「田家衣食無厚薄、不見県門身即楽」で、官衙に彼等はびく/\ものである。然し彼等の権力を敬するは、敬して実は遠ざかるのである。税もこぼしながら出す。徴兵にも、泣きながら出す。御上《おかみ》の沙汰としなれば、大抵の事は泣きの涙でも黙って通す。然し彼等が斯くするは、必しも御上に随喜《ずいき》の結果ではない。彼等が政府の命令に従うのは、彼等が強盗に金を出す様なものだ。此辺の豪農の家では、以前よく強盗に入られるので、二十円なり三十円なり強盗に奉納《ほうのう》の小金《こがね》を常に手近に出して置いたものだ。無益の争して怪我するよりも、と詮《あき》らめて然するのである。農は従順である。土の従順なるが如く従順である。土は無感覚の如く見える。土の如く鈍如《どんより》した農の顔を見れば、限りなく蹂躙《じゅうりん》してよいかの如く誰も思うであろう。然しながら其無感覚の如く見える土にも、恐ろしい地辷《じすべ》りあり、恐ろしい地震があり、深い心の底には燃ゆる火もあり、沸《わ》く水もあり、清《すず》しい命の水もあり、燃《も》せば力の黒金剛石の石炭もあり、無価の宝石も潜《ひそ》んで居ることを忘れてはならぬ。竹槍席旗は、昔から土に※[#「にんべん+牟」、第3水準1−14−22]《ひと》しい無抵抗主義の農が最後の手段であった。露西亜《ろしあ》の強味は、農の強味である。莫斯科《モスクワ》まで攻め入られて、初めて彼等の勇気は出て来る。農の怒は最後まで耐えられる。一たび発すれば、是れ地盤《じばん》の震動である。何ものか震動する大地の上に立てようぞ?

       八

 農家に附きものは不潔である。だらしのないが、農家の病である。然し欠点は常に裏から見た長所である。土と水とが一切の汚物を受け容《い》れなかったら、世界の汚物は何処へ往くであろうか。土が潔癖になったら、不潔は如何《どう》なることであろうか。土の土たるは、不潔を排斥して自己の潔を保つでなく、不潔を包容し浄化して生命の温床《おんしょう》たるにある。「吾父は農夫也」と耶蘇の道破した如く、神は正《まさ》しく一の大農夫である。神は一切を好《よし》と見る。「吾の造りたるものを不潔とするなかれ」是れ大農夫たる神の言葉である。自然の眼に不潔なし。而して農は尤も正しい自然主義に立つものである。

       九

 土なるかな。農なるかな。地に人の子の住まん限り、農は人の子にとって最も自然且つ尊貴な生活の方法で、且其救であらねばならぬ。
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     蛇

       一

 虫類で、彼の嫌いなものは、蛇、蟷螂《かまきり》、蠑※[#「虫+原」、第3水準1−91−60]《いもり》、蛞蝓《なめくじ》、
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