、都の邸《やしき》の眼かくしにされたのもある。お百姓衆の鍬《くわ》や鎌《かま》の柄《え》になったり、空気タイヤの人力車の楫棒《かじぼう》になったり、さま/″\の目に遭うてさま/″\の事をして居る。失礼ながら君の心棒も、俺の先代が身のなる果だと君は知らないか。俺は自分の運命を知らぬ。何れ如何《どう》にかなることであろう。唯其時が来るまでは、俺は黙って成長するばかりだ。君は折角眼ざましく活動し玉え。俺は黙って成長する」
云い終って、一寸|唾《つば》を吐《は》いたと思うと、其《それ》はドングリが一つ鼻先《はなさき》に落ちたのであった。夢見男は吾に復えった。而《そう》して唯いつもの通り廻る水車と、小春日に影も動かず眠った様な樫の木とを見た。
[#改ページ]
農
[#ここから7字下げ]
我父は農夫なり 約翰《ヨハネ》伝第十五章一節
[#ここで字下げ終わり]
一
土の上に生れ、土の生《う》むものを食うて生き、而して死んで土になる。我儕《われら》は畢竟土の化物である。土の化物に一番適当した仕事は、土に働くことであらねばならぬ。あらゆる生活の方法の中、尤もよきものを択《えら》み得た者は農である。
二
農は神の直参《じきさん》である。自然の懐《ふところ》に、自然の支配の下に、自然を賛《たす》けて働く彼等は、人間化した自然である。神を地主とすれば、彼等は神の小作人である。主宰《しゅさい》を神とすれば、彼等は神の直轄《ちょくかつ》の下に住む天領《てんりょう》の民である。綱島梁川君の所謂「神と共に働き、神と共に楽む」事を文義通り実行する職業があるならば、其れは農であらねばならぬ。
三
農は人生生活のアルファにしてオメガである。
ナイル[#「ナイル」に二重傍線]、ユウフラテ[#「ユウフラテ」に二重傍線]の畔《ほとり》に、木片で土を掘って、野生の穀《こく》を蒔《ま》いて居た原始的農の代から、精巧な器械を用いて大仕掛にやる米国式大農の今日まで、世界は眼まぐろしい変遷を閲《けみ》した。然しながら土は依然として土である。歴史は青人草《あおひとぐさ》の上を唯風の如く吹き過ぎた。農の命《いのち》は土の命である。諸君は土を亡ぼすことは出来ない。幾多のナポレオン[#「ナポレオン」に傍線]、維廉《ヰルヘルム》、シシルローヅ[#「シシルローヅ」に傍線]をして勝手に其帝国を経営せしめよ。幾多のロスチャイルド[#「ロスチャイルド」に傍線]、モルガン[#「モルガン」に傍線]をして勝手に其|弗《ドル》法《フラン》を掻き集めしめよ。幾多のツェッペリン[#「ツェッペリン」に傍線]、ホルランド[#「ホルランド」に傍線]をして勝手に鳥の真似魚の真似をせしめよ、幾多のベルグソン[#「ベルグソン」に傍線]、メチニコフ[#「メチニコフ」に傍線]、ヘッケル[#「ヘッケル」に傍線]をして盛んに論議せしめ、幾多のショウ[#「ショウ」に傍線]、ハウプトマン[#「ハウプトマン」に傍線]をして随意に笑ったり泣いたりせしめ、幾多のガウガン[#「ガウガン」に傍線]、ロダン[#「ロダン」に傍線]をして盛に塗《ぬ》り且|刻《きざ》ましめよ。大多数の農は依然として、日出而作《ひいでてさくし》、日入而息《ひいってやすみ》、掘井而飲《いどをほってのみ》、耕田而食《たをたがやしてくら》うであろう。倫敦、巴里、伯林、紐育、東京は狐兎の窟《くつ》となり、世は終に近づく時も、サハラ[#「サハラ」に二重傍線]の沃野《よくや》にふり上ぐる農の鍬は、夕日に晃《きら》めくであろう。
四
大なる哉土の徳や。如何なる不浄《ふじょう》も容《い》れざるなく、如何なる罪人も養わざるは無い。如何なる低能の人間も、爾の懐に生活を見出すことが出来る。如何なる数奇《さくき》の将軍も、爾の懐に不平を葬ることが出来る。如何なる不遇の詩人も、爾の懐に憂を遣《や》ることが出来る。あらゆる放浪《ほうろう》を為尽《しつく》して行き処なき蕩児も、爾の懐に帰って安息を見出すことが出来る。
あわれなる工場の人よ。可哀想なる地底《ちてい》の坑夫よ。気の毒なる店頭の人、デスクの人よ。笑止なる台閣《だいかく》の人よ。羨む可き爾農夫よ。爾の家は仮令豕小屋に似たり共、爾の働く舞台は青天の下、大地の上である。爾の手足は松の膚《はだ》の如く荒るゝ共、爾の筋骨は鋼鉄を欺く。烈日《れつじつ》の下《もと》に滝なす汗を流す共、野の風はヨリ涼しく爾を吹く。爾は麦飯《むぎめし》を食うも、夜毎に快眠を与えられる。急がず休まず一鍬一鍬土を耕し、遽《あわ》てず恚《いか》らず一日一日其苗の長ずるを待つ。仮令思いがけない風、旱《ひでり》、水、雹《ひょう》、霜の天災を時に受くることがあっても、「エホバ与え、
前へ
次へ
全171ページ中69ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳冨 蘆花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング