ら》にあるだよ、それ其処をそう往ってもえゝ、彼方《あっち》へ廻ってもいかれるだ」辰爺さんが顋《あご》でしゃくる。
美的百姓は木臼《きうす》に腰かけたまゝ、所在《しょざい》なさに手近にある大麦の穂を摘んでは、掌で籾《もみ》を摺《す》って噛《かじ》って居る。不図気がつくと、納屋の檐下《のきした》には、小麦も大麦も刈入れた束《たば》のまゝまだ扱《こ》きもせずに入れてある。他所《よそ》では最早|棒打《ぼううち》も済んだ家もある。此家の主人の病気が、如何に此家の機関を停止して居たかが分《わ》かる。美的百姓も、黯《くら》い気分になった。此家の若主人に妻君《かみさん》があったか如何《どう》か、と辰爺さんに尋ねて見た。
「まだ何もありませんや。ソラ、去年の暮に帰《けえ》って来たばかりだからね」
然《そう》だ。若主人は二年の兵役にとられて、去年の十二月初やっと帰って来たのであった。一人息子だったので、彼を兵役に出したあと、五十を越した主人は分外に働かねばならなかった。彼の心臓病《しんぞうびょう》は或は此無理の労働の結果であったかも知れぬ。尤も随分酒は飲んで居た。故人は村の兵事係《へいじがかり》であった。一人子でも、兵役に出すは国家に対する義務ですからと、毎《つね》に云うて居た。若主人の留守中、彼の手助けは若い作男であった。故人は其作代が甲斐々々しく骨身を惜まず働く事を人毎《ひとごと》に誉《ほ》めて居た。
時が大分移った。酔った辰爺さんは煙管と莨入《たばこいれ》を両手に提げながら、小さな体をやおら起して、相撲が四股《しこ》を踏む様に前を明けはたげ、「のら番は何しとるだんべ。のら番を呼んで来《こ》う」と怒鳴った。
「野良番を呼んで来う。のら番は何しとるだンべ。酔っぱらって寝てしまったンべ」と辰爺さんは重ねて怒鳴った。
「何《なあに》、銀平さんに文ちゃんだから、酔っぱらってなンか居るもンか。最早《もう》来る時分だ」仁左衛門さんが宥《なだ》める。
「いや野ら番ばかりァ酒が無えじゃやりきれねえナ。彼《あの》臭《にお》いがな」と誰やらが云う。
「来た、来た、噂をすりゃ影だ、野ら番が来た」
墓掘番《はかほりばん》の四人が打連れて来た。
「御苦労様でしたよ」皆が挨拶する。
「棺が重いぞ。四人じゃ全くやりきれねえや。八人|舁《か》きだもの」と云う声がする。
勘爺さんが頷《うなず》いた。「然だ/\、手代《てがわ》りでやるだな。野良番が四人《よったり》に、此家の作代に、俺《おら》が家の作代に、それから石山さんの作代に、それから、七ちゃんでも舁《か》いてもらうべい」
野良番四人の為に蓆の上に膳が運ばれた。赤児の風呂桶大《ふろおけほど》の飯櫃《おはち》が持て来られる。食事|半《なかば》に、七右衛門爺さんが来て切口上で挨拶し、棺を舁《かつ》いで御出の時|襷《たすき》にでもと云って新しい手拭を四筋置いて往った。粕谷で其子を中学二年までやった家は此家《ここ》ばかりと云う程万事|派手《はで》であった故人が名残《なごり》は、斯様《こん》な事にまであらわれた。
四
「念仏でもやるべいか」
と辰爺さんが言い出した。「おい、幸さんとこの其児、鉦《かね》を持て来いよ」
呼ばれた十二三の子が紐《ひも》をつけた鉦と撞木《しゅもく》を持て来た。辰爺さんはガンと一つ鳴らして見た。「こらいけねえな、斯様《こん》な響《おと》をすらァ」ガン/\と二つ三つ鳴らして見る。冴《さ》えない響がする。
「さあ、念仏は何にしべいか。南《な》ァまァ陀《だ》ァ仏《ぶつ》にするか。ジンバラハラバイタァウンケンソバギャアノベイロシャノにするか」
「ジンバラハラバイタァが後生《ごしょう》になるちゅうじゃねいか」仁左衛門さんが真面目に口を入れた。「辰さん、お前《めえ》音頭《おんどう》をとるンだぜ」
「※[#「口+云」、第3水準1−14−87]《うん》、乃公《おら》が音頭とるべい。音頭とるべいが、皆であとやらんといけねえぞ。音頭取りばかりにさしちゃいけねえぞ――ソラ、ジンバラハラバイタァ」ガーンと鉦が鳴る。
「ジンバラハラバイタァ――」仁左衛門さんが真面目について行く。多くは唯笑って居る。
「いかん/\、今時の若けい者ァ念仏一つ知んねえからな。昔は男は男、女は女、月に三日宛寄っちゃ念仏の稽古したもンだ」辰爺さん躍起《やっき》となった。
「教えて置かねえからだよ」若い者の笑声が答える。
「炬火《たいまつ》は如何《どう》だな。おゝ、久《ひさ》さんが来た。久さん/\、済まねえが炬火を拵《こさ》えてくんな」
唇の厚い久さんは、やおら其方《そち》を向いて「炬火かね、炬火は幾箇《いくつ》拵えるだね?」
「短くて好《え》えからな、四つも拵えるだな。そ、其処の麦からが好いよ」
「※[#「口+云」、第3水準1−
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